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誤解させられている「上の権威に従え」

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。
そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ロマ書13:1-5)
と、ロマ書は教え、ことにこの服従は「良心のため」であるとしている。

また、ペテロ前書も、
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。
それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」(Ⅰペテロ2:13ー14)
と教えている。

これらの言葉は、「教会と世界との共同性」を意味している。
教会が、そのただ中に置かれている「世界の秩序」に対する態度においてそれ自身を表現している。

教会の「超世界性」と「内世界性」から見るとき、教会の周囲の世界の秩序などは、無視すべきものとされるか。
あるいはやむを得ずその下に一時的に服すべきものとして考えられるかのいずれかである。

新約聖書は、教会に命じて、その周囲の「世界の秩序」に対して、信仰的にかつ良心的に服従せよと命じている。

この周囲の「世界の秩序」に従えということは、単なる「中間倫理」、すなわち主の再臨はもはや間近に迫っているから、それまでのところ便宜的に従っておけという意味の倫理、として理解されてはならない。

前掲のロマ書とⅠペテロの言葉は絶対にそのような解釈を許さない。

これこそ教会と世界との「非連続的連続」の上に立つ「共世界性」の理解から述べられた言葉である。

このことは聖書を一貫して現われている「神の人間世界における秩序保全」に対する、聖なる態度において示されている。

神の創造になる世界が、人間の堕落によって破壊されて後も、神はこれをその救いの対象として見られているだけでなく、その秩序保全に常にその聖旨を向けたもうた。

旧約聖書は、一貫してこの事実を示しているが、ことに預言書においてはこのことが濃厚に現われている。

「天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる、『わたしは主である、わたしのほかに神はない。』といい、また 『天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方』。」(イザヤ45:18、12)
といわれているのは、これを宣言した明瞭な預言の言葉である。

前掲したロマ書とⅠペテロの言葉は、この聖書を一貫している「世界秩序保全」に対する神の聖旨を、教会的に表現したものである。

この精神は、「世界の秩序崩壊」の一つの原因となる「落伍者への関心」としても現われている。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:27)
とは、この精神を如実に語ったものである。

これはしかし、旧約聖書の預言者に現われている「貴族富豪に対する弾劾」と「寡婦孤独に対する顧慮」とは、その「対象を異」にしていることを銘記すべきである。

旧約聖書の、たとえば下記するアモスやイザヤなど、預言者のそれは、「選民の内」(新約で言えば「教会内部」)の被圧迫者と圧迫者とに対するものであるが、上掲の新約聖書の書簡におけるそれは、「教会外の世界」に対する顧慮と関心とを示すものである。

「主はこう言われる、『イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。 彼らはすべての祭壇のかたわらに質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。』」(アモス書 2:6-8)

「わざわいなるかな、みずから象牙の寝台に伏し、長いすの上に身を伸ばし、群れのうちから小羊を取り、牛舎のうちから子牛を取って食べ、 琴の音に合わせて歌い騒ぎ、ダビデのように楽器を造り出し、 鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。 それゆえ今、彼らは捕われて、捕われ人のまっ先に立って行く。そしてかの身を伸ばした者どもの/騒ぎはやむであろう。」(アモス書6:4-7)

「あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。 あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、 乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう。」(アモス書8:4-6) 、

「わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。」(イザヤ5:8)

重ねて記すが、新約聖書のそれは、滅ぶべき「世界の秩序」を救いの対象とするので、保全するという精神から出たものである。

しかし、この周囲の世界の秩序保全に対する教会の共世界的態度は、その世界がどんな「対教会的態度」にあっても、それに無関係に恒久的に続けられるものではない。

それが「非」キリスト教的である間は、この態度がつづけられるが、それが「反」キリスト教的になってくるとき、教会の共世界的態度は変更されるべきものと考えられている。

この教会の共世界的態度の限界は、旧約聖書において、ことに顕著に現われている。

たとえばソロモン王の子レハベアムの代になって、王制が神の選民を圧迫するようになり、またきわめて異教的になったために、「シロ人なる預言者アヒヤ」が、北方諸部落の指導者ヤラベアムを起こして、ついにダビデ王家にそむかせ、王国を南北に分裂させた(Ⅰ列王紀11:29以下)。

また、北王国イスラエルの第四王朝アハブ王のとき、王妃イゼベルによってフェニキヤのバアル礼拝がイスラエルに導入せられ、都サマリヤにその神殿が建てられ、かつ選民イスラエルの個人の神聖なる産業が王によって奪われるという事態が発生したため、預言者エリヤとその弟子エリシャによって、この王朝はついに倒されるに至った(Ⅰ列王紀16:31ー33、21:1以下。Ⅱ列王紀9:1ー10:27)。

新約聖書においても、全天下に君臨していた一帝国が、その虐政と反神的態度との窮みに達したとき、「大いなるバビロン」として描かれ、それが倒されたことがしるされている。

すなわち天より声があって、
「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
といったときがそのときである(黙示録18:4)。

このときが具体的にいつであるかは、「時の徴を見分ける」教会の「ものみ」が告知すべきである。

同時に教会は常に、この「ものみ」に対して、
「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」(イザヤ21:11)
と問わなければならない。

ここに教会に対する預言的性格の要請が見いだされる。

キリスト教会の「共世界性」は、上記のように、これを構成している「肢」である信仰者が、世界と血肉的につながれている。

それぞれの民族または国家に対して、その「秩序保全」のために協力すべきことを求められているところに根ざす性格である。

しかし、その協力にはおのずから限界がおかれていて、前述のように、周囲の秩序が「非」キリスト的である間においてであって、「反」キリスト的となったとき、教会は初めてそこにその「限界」をみるのである。

次元がきわめて低いことになるが、「カルト化」した教会(「集会」と自称するものも含めて)では、「上の権威」を、牧師、宣教師などと思い込まされている。

聖書で言う「上の権威」とは、「世界が対象」であり、次元が違うのである。
牧師、宣教師が、「反キリスト」的になったら、否、「非キリスト」にさえなったら、信徒は即、「戦う」のが当然である。

その時の「武器」は、聖書である。
その聖書は、学的「公認」(Consensus)を得た「公定本文」によって、時代の、それぞれの国語による「改正訳」によるべきことは、言うまでもない。
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「息子への詫び」

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50歳になる息子に、産んだことを詫びた。

弱肉強食、優勝劣敗、自然淘汰が支配するこの世界の一員にしてしまったことをである。

強者にとっては楽しい世界であろうが、弱者にとっては地獄である。

弱肉強食、優勝劣敗、自然淘汰以上に、人を苦しめるのは、「伝道の書」が暴くような「虚無」である。

息子も、この「虚無」を、痛いほど実感しているはずである。

この世界が「虚無=むなしく」なったというのは、その造り主の「ロゴス」との関係が、人間の堕落のために断絶した結果である。

コロサイ書は、
「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16ー17)
としるされている。

すなわち全被造物界(一切の生物を含む)としての宇宙は、
①その存在の「起源」をキリストにもち、
②その存在の「理由」をキリストにもち、
③その存在の「保持」をキリストにもっているのである。

したがってこの世界は、このキリストとの関係が断絶したことによって、「むなしく」なったというのは当然である。

一言でいえばこの断絶によって世界は、
①キリストによる統一性を失い、
②キリストによる渾一性を失い、
③キリストによる全体性を失ったので、その部分は部分相互として、その部分体と全体との関係は分裂し、キリストによる「世界」Kosmosは、キリストを離れて「混沌」Chaosとなったのである。

しかし、現在のこの「世界」は、一つの秩序を持ち、その調和を有している。
聖書において示されている悪魔(サタン)による神の創造の秩序の破壊は、世界のいっさいの秩序を破壊し、すべての調和を乱してしまったと考えられてはならない。

悪魔の世界破壊は、それ以上の破壊である。

秩序の破壊と調和の混乱だけでなく、「神の秩序」に代えて「悪による秩序」を整え、「神の調和」に代えて、「悪による調和」をもたらしたのである。

絶対的に似て非なる秩序と調和とをこの世界に建てた。

ここにサタンの勢力圏が「国」Basileiaと呼ばれているゆえんがある。

このサタンの「国」の秩序と調和とは、一言にいえば、徹底的利己的個人主義に立つ世界の個々人の欲求追求における「均衡」による秩序であり調和である。

サタンの誘惑による人間の堕落は、人類を全く個人個人、種族種族、階級階級に分裂させ、そのいっさいの社会生活を、個々人の利益のため、個々の種族のため、個々の階級のために存在するものと考えさせるようにした。

アダムが罪を犯して、神から詰問された時、彼は自己の責任を回避し、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と、その罪をその妻に帰した。その妻エバはさらに「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12-13)とその責任を蛇に帰した。

これが堕落した人間の本質となった。
サタンは、実に神の前においてさえ、人間のこの本質を暴露して、ヨブのような篤信の義人についてさえ「サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。』」と豪語することができたのである(ヨブ記1:9)。

もし、息子を産んだことに意味があるとすれば、イエスの復活によって、神が「確約」された「宇宙万物の再完成」が成就した世界で生きられることだけである。

再完成される世界は、個々人の個性が完全に活かされる共存共栄の場である。
イザヤは、その情景を次のように預言している。

「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(イザヤ11:6-9 )

息子は、これを、どう受け取ってくれたか。

◎教会の終末(終わり)

●その終末
(教会は、世界を超えたところで創られ、世界の中に置かれ、世界の外の本質を持ち、世界と共に生き、世界に抗する力を持ち、世界を充たすことにその存在の意義を持っています。その姿は、キリストとの婚約時代にたとえられています。教会の終末は、キリストとの結婚です)

「結婚式教会」「葬儀教会」「社交教会」は、山ほどあっても、「教会の終末」を語る教会は多くはないでしょう。

でも、聖書は、黙示録で、教会の全時代を書いています。(黙示録2章1節から3章22節)

「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」時代から、「初めの愛から離れてしまった。」時代へ、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」という時代へ。

聖書は、旧約も、新約も、「右下がり」に書かれています。

下降の極点に達した時に、突然、神の御手が働くのです。

旧約の「イスラエル・ユダヤ」の下降の極点では、イエスの誕生。
新約の「教会」の下降の極点では、『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』」(黙示録4章1節)という神の御声です。

黙示録には、三つの重要なことが書かれています。

① 全宇宙を支配していた悪の力の絶滅。(黙示録20章7節から10節)「エデンの園=天国」を喪失して以来、宇宙を毒し、人間を悩まし続けた悪魔が絶滅されるのです。

② 人類が生まれて以来のあらゆる人間が、死んでいる、生きているに関わらず神の前に立たされ、「生命(いのち)の書」と「行為の書」とに照らし合わされて、「究極の審判」(最後の審判)を受けるのです。その結果、「命の書」に書かれている者は、究極の救いに入れられ、そうでない者は、究極の滅亡に入れられるのです。

③ 失われた「エデンの園=天国」が、完全に回復され、「新天新地=天国」が現れ、一切のものが新たにされます。そして、イエスと教会との婚約時代を終えて、完全な結婚生活に入るのです。 この「新天新地=天国=楽園」の中心は、聖なる都=新しいエルサレム=教会なのです。

聖書は、創世記の「天地創造」、「エデンの園=天国」追放に始まり、黙示録の「天国回復」で完結する一大パノラマ(400詰め原稿用紙で6000枚余)になっています。

「救いの歴史」ということも出来ます。

この一大パノラマの中で、大きな役割を果たしているのが教会です。その教会の七つの本質を書いてきました。

聖書という一大パノラマを理性的に分かっても、「信じるか」「信じないか」、「信じられるか」「信じられないか」は、全く別問題です。

聖霊によって「イエスは、キリストである」と信じさせられた人は、この一大パノラマは、瞬時に把握させられています。

したがって、聖書に基づくといった場合(イエス、あるいはキリストを名乗っても同じ。初代教会では、聖書とイエスは、同義語。)、教会の在り方は、ここに書いてきた七つの本質を備えているか、備えるように志向しているか、であるはずです。

この七つの本質が、教会や信者の実生活に結果するものは、「見えない神を、見えるかのようにして、地上の生活をおくる」ということになるのでしょう。

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黙示録

21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

◎教会の充世界性⑤

●世界を充たすもの----5.
「罪の赦しを告知するもの・教会」
(教会が、「世界を超えるもの」であり、「世界の内にあるもの」であり、「世界の外にあるもの」であり、「世界と共にあるもの」であり、「世界に抗するもの」であるなどの本質を与えられているのは、「世界を満たすもの」だからです)

「『罪』って、何?」って、本当は聞きたい信者が多いのも事実です。

何十年も教会に通っていても、「罪」が分からない信者は、山ほどいるでしょう。

「罪」と聞けば、「姦淫」「離婚」くらいしか思い浮かばない信者もいるでしょう。

でも、聖書は、「罪と赦しに関する限り完全な書物」といわれるほど、「罪」に関する記述に満ちています。

聖書(旧・新約)の中心は、どう読んでも、イエスです。

そのイエスが人として来られた目的は、贖罪であり、その中心は十字架であり、その十字架は、人類の「罪」からの救いのためですから、「罪」と「イエス・キリスト」と「聖書」とは密接な関係を持っています。

聖書を通読すれば、生きるのが息苦しくなるほどに、どれもこれもが「罪」として指摘されています。

もし、イエスの十字架による「罪の赦しを信じない」で読めば、聖書を放棄するか、自滅するでしょう。

逆に、「罪の赦しを信じて」読めば、聖書の「罪の指摘」は、イエスへの「赦されている」という感謝に変わります。

その意味で、「聖書」は両刃の剣なのです。
ヘブル書4章12節の通り、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とある通りです。

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ロマ書
14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。

◎教会の充世界性④

●世界を充たすもの----4.
「キリストを形作る・教会」
(教会が、「世界を超えるもの」であり、「世界の内にあるもの」であり、「世界の外にあるもの」であり、「世界と共にあるもの」であり、「世界に抗するもの」であるなどの本質を与えられているのは、「世界を満たすもの」だからです)

意に添わなければ、信者をすぐに放逐したり、逆に、神の名の下によって、身動きが取れないようにした上で、攻めまくり、いじめまくる教会があります。

まるで、拷問のようなものです。
特に、新興のカルト化した教会に多いようです。

でも、聖書は、教会は、各々の信徒に「キリストが形作られる」まで、最大限の努力を続けることを求めています。

その具体的方法は、聖書によれば旧・新約聖書を通読して、イスラエル・ユダヤの失敗に学びつつ、各々の信者にキリストが形作られるようにして、教会を立ち上げることとしています。

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ガラテヤ
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。