旧約聖書の預言(11)

(11)旧約聖書の預言の「成就」

前回、イザヤ書から四つの福音書への引用の事例を全部あげましたが、マタイ伝では八章十七節に、イザヤ書五十三章四節を、

マタイ
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

イザヤ
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

そしてマタイ十二章十七節に、イザヤ四十二章一ー四節を引用しています。



マタイ
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。

イザヤ
見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、そのおしえを待ち望む。

この両引照は、ほかの福音書に平行節がありません。

さらにすすんで教会創設を語っている使徒行伝をみると、そこには明瞭な言及が六か所あります。

まず、復活のイエスがその昇天前、弟子たちに、

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 」(使徒1:8)

と言われたのは、

イザヤ書四十三章十節=「あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。」

を引用し、また、ペンテコステ直後の、ペテロがその説教中に、

「私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。」(使徒3:13)、
「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。」(使徒3:15)、
「あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエス」(使徒4:27四・二七)、
「あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、」(使徒4:30)
とのべたとしるされています。

これらは「しもべ=僕」というただ一語の引用ですが、明らかにこの預言を熟知していたことを示すものであり、またこの説教がしるされた当時、この預言がイエス理解の鍵となっていたことを示すものです。

さらにこの使徒行伝は、この点に関して明白な証拠をしるしています。
サマリヤ伝道の主導者だったピリポが、天使の指示で、ガドにゆく道に下り、そこでエチオピアの宦官が、馬車の中で、おそらく声高に、イザヤ書五十三章七節と八節を読んでいるのを聞き、宦官に向かって、
「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と問い、彼が「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」
と答えたのを機会として、その聖句がイエスの預言であることを語り、「この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」としるされています(使徒8:26ー38)。

これはこの物語が書かれた当時の幼い教会が用いていた伝道方法を如実に示しています。そしてその中心が、イザヤ書五十三章、それがイエスの受難を預言したものだという教えでした。
スポンサーサイト

旧約聖書の預言(10)


(10)旧約聖書の預言の「成就」

四つの福音書を見ると、イザヤ書の「苦難の僕」の預言から、文章的に、語句的に、言及的表現で、その意味を引用しています。
下記はその例示です。(⭕️はイザヤ書)

イザヤ書42:7=マタイ11:5、ルカ1:79
⭕️こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

イザヤ書43:2、5=マタイ28:20
⭕️あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。


   
イザヤ書43:10=ヨハネ15:26-27
⭕️あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。   

イザヤ書44:1-12=マルコ1:11
⭕️今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。
ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」
イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。
「わたしは初めであり、わたしは終わりである。
わたしのほかに神はない。
わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。
これをわたしの前で並べたててみよ。
彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。
恐れるな、おののくな。
わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。
あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。
ほかに岩はない。わたしは知らない。
偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。

そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」  

イザヤ書44:3=ヨハネ4:12-14
⭕️わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

「あなた(イエス)は、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える
水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」  

イザヤ書49:3=ヨハネ13:31
⭕️そして、私に仰せられた。
「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。
 わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」

ユダ(イスカリオテ)が出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」  

イザヤ書49:5=マルコ13:27、ヨハネ11:52
⭕️今、主は仰せられる。
 ――主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。
私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。――

マルコ
そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。

ヨハネ
また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

 
イザヤ書49:6=ルカ2:31
⭕️主は仰せられる。
「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。
わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、

イザヤ書49:6=ルカ2:32
⭕️主は仰せられる。
「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。
わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
   
イザヤ書50:6=マルコ14:65、マルコ15:15、マタイ26:67.マタイ27:26、ヨハネ18:22
⭕️打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

マルコ
そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。

それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。

マタイ
そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、

そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。

ヨハネ
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
   
イザヤ書50:7=ルカ9:51
⭕️しかし、神である主は、私を助ける。
それゆえ、私は、侮辱されなかった。
それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、

イザヤ書50:10=ヨハネ12:35
⭕️あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。
暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。

イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
   
イザヤ書52:13=ヨハネ12:23
⭕️見よ。わたしのしもべは栄える。
彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」  

イザヤ書53:1=ヨハネ12:38
⭕️私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現れたのか。

それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

イザヤ書53:3=マルコ9:12
⭕️彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。

イザヤ書53:4=マタイ8:17
⭕️まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

   
イザヤ書53:1ー12=マルコ14:24、ロマ5:18ー19
⭕️私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
主の御腕は、だれに現れたのか。
彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

マルコ
イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」

ロマ
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

イザヤ書53:12=ルカ22:36ー37
⭕️それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。

旧約聖書の預言⑼

⑺ 旧約聖書の預言の「成就」

次に第三段階では、さらにこの引用のし方が発展しているのがみえます。

旧約聖書中の個々の言葉が、メシヤ預言として引用されるというのではなく、旧約聖書「全体」が、それとしてみられるようになったことです。
これに対しては、二つのことがあずかって力があったでしょう。

その一は、上述のように、ユダヤ会堂でみたメシヤ預言引用のほかに、そうでないものも多く引用されるようになってきて、その数が非常に多くなってきたということです。

その二は、メシヤ預言でないものが預言として引用されるようになってみると、「では、ほかの部分はなぜそう解されてはならないか?」という信仰による解釈的の要請がおこってきたためです。

この旧約聖書「全体」をメシヤ預言とみる見方は、パウロにおいてみられています。
すなわち、
「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:3-4)
と言われていて、その事実が旧約聖書のいずれの部分からというよりは、「三日めに甦へり」とは、
ホセア書六章二節=「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」
によっているということはほぼ定説としてみられますが、「聖書」として、旧約聖書「全体」を意味しているのです。

しかしこの旧約聖書「全体」をメシヤ預言としてみるとすると、その解釈がまったくユダヤ会堂と異なってきますから、そこに教会側として、そう解釈することに対するなんらかの「権威」が必要となりました。

その名ごりが、復活のキリストによる教えです。
ルカ伝二十四章をみると、エマオ途上で二人の弟子が復活の主からこれを教えられたことがしるされています。
「わたし(イエス)がまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
といわれ、
「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」
としるされています。(ルカ24:27、24:44)。

このように旧約聖書を全部メシヤ預言と解釈することは、復活の主が、
「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開」(ルカ24:45、24:32)かれた結果であり、そのとき弟子たちの「心、内に燃え」たのでした。

この新約聖書における旧約聖書のメシヤ預言解釈には、前述のように内外両面ありました。内面関係では、二つの目的がありました。
一方には新約教会の指導者たちが、自分自身の信仰を、聖書(旧約聖書)によって確立するためと、他方には教会にはいってきた改宗者を正しく教育しようとしたためです。

外的関係としては、くり返してきたように、ユダヤ人とユダヤ会堂に対して、「旧約聖書の預言しているメシヤは、ナザレのイエスなり」という信仰的主張を、論証するためになされたものです。       

旧約聖書の預言⑻


⑸ 旧約聖書の預言の「成就」

この時代(初代教会時代)の異邦人に対する宣教は、「ナザレのイエス」を「メシヤ」であるというよりは、「神の子」または「主」という方が力があったし、また魅力がありました。

このことの研究者、ヴィンセント・テーラーも、エルンスト・ローマイヤーも同様に異邦人地域では、この「ダビデの子」という肩書きは、興味も感じなかったろうし、意味もなかった。そこではむしろ「主」または「神の子」という肩書がとられたといっています。

ことにこの「メシヤ預言」の解釈で、教会がユダヤ会堂に対したことは、教会側を大いに利しました。当時ユダヤ教では、「律法」と「祭儀」に関する規定は極端にまでこまかく、そして厳密にでき上がっていました。新約聖書を読む者に、その言及によって明らかなことです。
でも、「メシヤ預言」に関しては、前述の「旧約聖書の預言」に記したように、その個々の解釈が行なわれていた程度で、神学的に整えられたメシヤ観はありませんでした。

モーヴィンケルはこの点について、「旧約時代においてのように、後期ユダヤ教においても、終末観または末来の希望に対して、メシヤの姿は不可欠のものではなかった。この未来の希望について語っている宗教的の文書の全体において、メシヤは現われていない」といい、その実例を多くあげています。

クルマンは、「ちょうどイエス時代におけるユダヤ教においては、終末時の来たるべき仲介者については、多種多彩の見方がひろまっていた。それらは部分的には相互相異なっていた。イエス時代のユダヤ教は、一般的には確固たるメシヤ観をもっていなかったということが、まず決定せられなければならない」といっています。

ドットはこの関係を、「明瞭に形成され、そして一般に受け入れられたメシヤ教義ができたのは、おそらく神殿の壊滅ののち、あるいは第二世紀あたりであったろう。明確なそして整備されたメシヤ教義をはじめて押し出したのは教会であった。そしてその教義は終局的にユダヤ教において現われたメシヤ教義とはまったく似ないものであった」といっています。

このドッドの言葉は、この言葉が字句的に現わしている意味のほかに、それだからこそユダヤ人が教会のメシヤ観に反対したのだった、ということをも語っているのです。そしてこのあとの意味のほうが、「会堂」と「教会」との抗争の真の原因を語っているというべきでしょう。

さらにこのほかにこの抗争に関して教会を利した事情がありました。それはこの時代にはすでに旧約聖書のギリシャ語訳の「七十人訳」が、教会によって盛んに用いられ、ほとんど「教会の聖書」の感があったのです。このために会堂はついにこの訳を排撃して、アクィラ、テオドシオンおよびシンマクス三訳を新たにつくるようになったのです。

その七十人訳のギリシャ語本文が、不思議にもキリスト教、ことにイエスに関する預言で、教会を非常に利するようになっていたのです。

たとえばマタイ伝一章二十三節の、

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

の「パルテノス」(処女)が、この七十人訳からとられ、ヒブル原典の「アルマー」(結婚適令期の若い女)とちがっていても、それを根拠としてイエスの処女降誕を基礎づけたという事実にみられるように、教会はこれによって会堂に対し、「これは我々がつくった翻訳ではなく、君たちがつくった翻訳の本文にあるではないか」と力づよく弁証することができたのです。

この意味で、教会がメシヤ預言のイエス的解釈によって、会堂に対抗したことは、もちろんイエスのメシヤ性が彼らの中心問題であったためですが、幸せであったということができます。

旧約聖書の預言⑺

⑷ 旧約聖書の預言の「成就」

「旧約聖書の預言」の中で、ユダヤ教が認めたメシア預言を、モーセ五書(律法)、預言書、書冊に分けてみてきましたが、それらは聖書全体からみれば、ほんのわずかでしかありません。
「では、他の部分は何なのか?」に対して、初代教会は歳月をかけて「聖書(全体)は、イエスを証言する書物である」という結論に至ります。
その経緯を順をおってみてみます。

初代教会の信仰者たちは、一つのかたい信仰に立っていました。
それは「ナザレのイエスこそ旧約聖書で預言されているメシヤである」という確信でした。
旧約聖書でのメシアは、「永遠に生きている」ことが不可欠の条件ですから、イエスが十字架で死んだままならメシアではありません。
復活したからこそ、「旧約聖書で預言されているメシヤは、ナザレのイエスである」という確信に立てたのです。
この意味で、「預言と成就」を示す旧約聖書の言葉の引照は、新約聖書中にみちています。

初代教会の人々が、この旧約聖書の預言を引照したことは、二つの意味をもっていました。
一つは、教会内の意味でした。
これには二面がありました。
①指導者たち自身がそれによって自己の信仰を聖書的にもう一度確認しようとしたためです。
②すでに教会に加えられていたユダヤ人と異邦人とからなる改宗者を、「旧約聖書的」に教えることで、信仰的に確立させようとしたためでした。

もう一つは、教会外に対する弁証のためでした。それは「対ユダヤ人」への弁証といってもよいものです。対異邦人という面もありましたが、旧約聖書的に論証するということはあまり必要ではなかったのです。

したがって、教会の指導者たちが、ユダヤ人に対して「ナザレのイエスはメシヤなり」ということを、旧約聖書から立証する必要があり、それはさらにその「預言」を用いるよりほかには方法がなかったのです。
使徒行伝は、この点について注意深く重要なことをしるしています。

旧約聖書に預言されている「メシヤ」は、異邦諸民族に無関係ではありませんがーーある書には彼の教えが万民におよぼされるともいわれていますが(イザヤ42:1-4、その他)、その来臨の中心的目的はイスラエル・ユダヤ人のためです。
したがって、教会がこのメシヤ・キリストの福音をのべるのに、この目的であるイスラエル・ユダヤ人を除外したり、無視したりすることはできませんでした。

使徒行伝は、このことに深い注意をはらっています。
第一に、教会がなぜユダヤ人をすておいてこの福音を異邦人にのべ伝えるか、ということの弁明です。
「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。『神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。』」(使徒13:46、28:28)といい、同様の言葉をこれとともに二回ーーパウロの異邦人伝道の初めと終わりとにくり返してしるしています。

さらに使徒行伝は、パウロとバルナバとが、その異邦人伝道旅行中、必ずユダヤ人に先に伝道していたことをしるしています。「(ユダヤ教の)会堂」のあるところでは、必ずそれを求めて、そこにゆき(使徒13:14以下、17:17以下、18:4など)。そして会堂のないところではユダヤ人の「祈り場」に行って、これを説いたことをしるしています(使徒16:11以下)。

その結果ユダヤ人たちは「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)というようになりました。パウロはこの点を、ローマの異邦人教会にあてた書簡の冒頭に端的に「この福音はユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも」(ロマ書1:16)としるしています。

さらにまたこの対ユダヤ人の面には、異邦人がユダヤ教に「改宗した者」もありました。彼らにもメシヤ預言で語りかける必要があったのです。たとえばサマリヤに伝道していたピリポが、荒野でエチオピア女王の宦官が、「イザヤ書を読む」のを見て、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と問いかけ、彼が「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答えたのを機として、彼が読んでいたイザヤ書五十三章を解説したような場合です。

彼(宦官)が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。
「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。
彼の時代のことを、だれが話すことができようか。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。(使徒8:32-35)

などが、その例です。