「選び」

「選び」

入学試験、就職試験、昇進・昇格、恋人・伴侶の「選び」など、人間社会の「選び」の一切が、「価値あるものの選び」であるのに反して、神の「選び」は、「恵みの選び」で、「価値のないものの選び」であり、「無きに等しい者の選び」であり、「無から有を呼び出す」こと以外の何ものでもない「選び」なのです(ロマ書4:17=「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。」)。

「選び」は、「『選び主』の自由」に根拠をもち、「選ばれる者」は、その「選びに賭ける」以外にこの「選び」に与り得ません。
(ロマ書9:11以下=
その子どもたち(エサウとヤコブの双子の兄弟)は、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。)。

旧約聖書から新約聖書を貫く主題の一つは、「平和共存」であり、新約聖書では、福音の主題として提示されていて、イエスの宣教の第一声は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉に集約されています(マルコ1:15)。

「平和共存」は、能力の不平等な者の世界での「平和共存」ですから、能力の不平等な人間が一人の犠牲もなく、それぞれが「所を得る」ということです。

能力のより多い者がより少ない者のために自己を与える、より強い者がより弱い者の弱さを「負い」、より賢い者がより愚かな者の愚かさを「負う」ということが求められます。
「各自が力量に応じて働き、必要に応じて受ける」という原則です。

しかし、人間のエゴイズムがこれに抵抗します。
ある学者はこれを「全に対する個の背反」と言っています。

イエスはこの「平和共存」としての「神の国」具現の条件を、エゴイズムからの百八十度の方向転換としての「悔改め」と「献身」として要請しました。

ところがこの「神の国の福音」を説いたイエスをユダヤ人は十字架につけました
選民ユダヤ人は、「神の国」の条件である「より弱い者の弱さを負う」ことが、生来の人間には不可能であることを実証したのです。

「全に対する個の背反」というエゴイズムの癒しは、個が自らを「無きに等しい者」として自覚するまでは不可能であることを意味します。
自らのエゴイズムを「償い難い負債」として認めさせられる「認罪」においてしかおこり得ません。
「認罪」は、「罪を赦す十字架のキリスト」に「負われて負う」という途になります。

「選ばれた者」とは、「より強い者」「より賢い者」です。
「選び」が、「選び」として貫徹させられるためには、「選び」という垂直的関係の自覚が、「無きに等しい者の選び」「恵みの選び」として深められることです。

「キリストの十字架に負われて負う」というキリスト者の主体性は、キリストにより「負われた」という賜物に先行されて「負う」という人間の課題を意味します。
この「負われた」という賜物の自覚は、「負債者という無きに等しい者を有る者のように見る神の恵みの選びの自覚」です。

しかし、現実の信仰者は、つねにこの「選び主」である神を、絶対他者として「恵みの出会い」において知らされる「汝」としてでなく、対象化し、相対化し、一面化し、過去化して、「それ」か、せいぜい「彼」として対する危険にさらされています。
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「親不孝の宗教」

「親不孝の宗教」

日本にキリスト教が伝来すると、「親不孝の宗教」と非難されました。
仏教界はもとより、「仁・義・礼・孝・忠」が根幹の儒教世界からも徹底的に揶揄(やゆ)されました。

「わたし(イエス)よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)

が、非難、揶揄された章節です。

まして、ヨハネによる福音書2章の冒頭で、

1
それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

母親を「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」というに至っては、言語道断です。

前者のマタイの章節は、非難、揶揄した側が、旧約聖書を読んでいないか、読んでも解らなかったのでしょう。
また、後者は、「教会」の象徴であることが読み取れなかったのでしょう。

前者マタイによる福音書のイエスの言葉の元は、旧約聖書、創世記12:1-3=
1
主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。(国土獲得)
2
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。(子孫繁栄)
3
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」(万民福祉)

にあります。

この章節は、神の「根源約束」と呼ばれるもので、この約束を与えられたアブラハムは、神の約束を信じられるように、神から多くの訓練を受けます。

その最後のものが、

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:2)

でした。

イサクを全焼のいけにえにしてしまえば、「根源約束」の2番目の「子孫繁栄」は叶えられなくなります。
イサクがなければ神の「根源約束」はすべてに無になり、アブラハムが神の言葉によって故郷を離れたという事実と、その後の生涯とはなんら意味のないものとなるのです。
しかしアブラハムはこの訓練に合格しました。
この神の訓練によって「子孫繁栄」の約束は、アブラハムとその子孫「とのため」という利己的のものではなく、第3の部分の約束である「万民福祉」のためのものであったことを知らされたのです。

「親不孝の宗教」と非難されるイエスの言葉、

「わたし(イエス)よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)

もまた、「万民福祉」のモデルになるための不可欠の条件なのです。


「苦痛」

「苦痛」

苦痛の問題は、人種的差別を超え、時空を貫いて、人生の一大課題です。
悪事を働いた者が苦痛を受けることに対しては、因果応報的に解釈します。
しかし義人と考えられている者の苦痛、罪のない者の受難ということは、人生の謎の一つとなってきました。

「義人が何故に苦しむか」と人は問い続けてきました。
ところがこの問の背後には、一つの見逃せない前提がかくされています。
それは、「もし神が存在するとすれば、彼は義人に苦痛を与え給うはずはない」というきわめて高等ですが、ご利益宗教的通念を出でない宗教的前提です。

聖書の中で、この「苦痛」に関してはヨブ記があります。
ヨブ記が記している「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」(元訳・「ヨブあにもとむることなくして神を畏れんや」)というサタンの言葉は、ご利益宗教的通念を要約しています(ヨブ記1:9)。

ヨブ記は、まさに苦痛を主題として、活ける信仰と、ご利益的宗教観と教義的宗教観との対決を劇化した、一大神学的絵巻物です。
ヨブ記の思想は、⑴ご利益的宗教観の超克、⑵教義的解釈の無力、⑶教訓的解釈の限界、⑷啓示的解釈の秘義、の四点から跡づけられます。

⑴御利益的宗教観の超克
ヨブ記の序文は「すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった」(ヨブ記1:22、2:10)と記し、いかに苦痛のドン底に陥しいれらてもヨブが、その信仰の対象である神を否定しなかったかを示し、ヨブの信仰の、ご利益的宗教観に対する勝利を描いています。
ここに人間というものが、ご利益のためでなく、純粋に神を信ずることのできるものであることを実証しようとしています。

⑵教義的解釈の無力
ヨブ記の本論は(ヨブ記3:1ー42:6)、ヨブと三人の友との対論ですが、功利的宗教のふるいにかけられて、取り出された神信仰の本質は何であるかを、苦痛の問題を媒介として掘り下げることに費されています。
三人の友はそれぞれ、「黙示」あるいは「伝統」、あるいは「不可知論」、あるいはエゼキエル以来の「因果応報」説に基づいて、苦痛に対する教義的解釈を述べています。

しかしこの三人の友との論争の部分を貫く特徴は、それらがすべて、苦痛に対する第三者的、傍観的、伝統的解釈であることです。
そこに次のエリフが紹介される必然性があり、この教義的解釈の無力なことが暴露されています。
そしてこの部分の論者が理論的に鋭く、観察的に深く、人道的に広い、懐疑的人物であったことが示されています。

⑶教訓的解釈の限界
三人の友とヨブとの論争が、苦痛に対する対象的教義的解釈であるのに対し、それにつづくエリフのそれは、明らかに内在的教訓的解釈です。
「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ記36:15)という言葉は、その教訓的解釈を要約した言葉です。

この言葉は、苦痛はそれを避けることによってでなく、苦痛が苦痛として悩み抜かれる時に、それからの真の救があることを語るものです。
それは、三人の友のそれにおいては閑却されていた、苦痛の「教育的価値」を指摘した見方ですが、しかし本書はその構造を通して、ヨブはこれによっても承服させられなかったことを示し、教訓的苦痛観の限界を語っていると見なければなりません。

⑷啓示的解釈の秘義
エリフの「教訓的解釈」の次に、
「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた」(ヨブ記38:1)ことを記しています。
すなわち、
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」という言葉を始めとして、「汝(あなた)」という呼びかけでなされた、神とヨブとの人格的対決を展開しています(ヨブ記38:1ー42:6)。

つむじ風の中から語る神は、生きた自然現象の中に現われる創造主の絶対的主体性を、パノラマのように展開し、今までの論述が、いかに神の主体性を閑却した空論であったかを指摘しています。

すなわち、神を「彼として」語っている間は、ヨブは「己が義」に立ち通せました(ヨブ記27:5、31:6、32:1等)。
しかしこの部分に至って、「己が義」に立つことは、「神を畏れる」ということとは絶対に両立しないものであることが暴露されました。

「神を畏れる」ということは、絶対的主体である創造主を「汝」として、自分が「被造者としての限界点」に立つことだからです。
絶対的主体である創造主との対決によって砕かれたヨブは初めて、
「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。ーーわたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを」見奉ります、と告白しています(ヨブ記42:1ー5)。

ヨブ記が、ヨブの苦痛の解決をこの言葉に示して終っているのはなぜでしょうか。
それはヨブ記の構造が示唆するところから明らかです。
「苦痛の意義」は、普遍的概念的に解明できるものではなく、苦痛の中におかれた個人が、その苦痛の中において、その絶対主体的な創造主を「汝」として仰がせられ、そして被造者である自分を発見することにおいてのみ、特殊的個性的に開示され得る事柄である、ということです。

客観的には「苦悩」を、創造神と信仰的被造者との「対決の場」と変える、啓示信仰の立証があります。
このように苦悩の意義を深化徹底し得る信仰において、初めてご利益宗教および教義的宗教が超克されるのです。
 

「聖餐(せいさん)」

「聖餐(せいさん)」

Ⅰコリントの聖餐の教えは、次の諸点にわたっています。
まずこの聖餐が「主より授けられたる」ものであるということ、教会はこれを「主の記念として行なう」べきであるということ、それは「主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」ものであること。そのパンは「主の体」であり、そのぶどう酒は「主の血」による新しい契約であるということ。この聖餐にあずかるとき「ふさわしくない」者は、「自ら審判を招く」のであるということなどの諸点です(Ⅰコリント11:20以下)。 

ヨハネによる福音書の聖餐論は(ヨハネ6章)、より詳細なものです。
まずこの聖餐の教えが、最後の晩餐のときに与えられたという共観福音書の記録と異なり、イエスの宣教中に与えられたものとされている理由は、共観福音書における、ことにパウロの「記念」としての呼び方が、聖餐を軽視させる恐れがあったためであったです。

またヨハネによる福音書のこの教えが五千人の人々を「五つのパンと二つのさかな」で養われた奇跡の後に置かれているのは、一方には物質的食物と心霊的食物とを併行させるためであり、他方には一人の肉と血が、無数の人をやしなうということを前記の奇跡と等しく、一つの真の奇跡として力説するためです。

したがってヨハネによる福音書の教えは、聖餐を記号的または象徴的に軽視することに対する戒めであり、他方にこれを物質的食物と分かつためです。

この教え全体で、次の五つの点が述べられています。
その一は、その本質的意義であって「わたしがいのちのパンです。」および「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」および「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」といわれていることです(ヨハネ6:35、6:51、6:55)。

その二は、終末的意義で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」および「このパンを食べる者は永遠に生きます。」といわれています(ヨハネ6:54、6:44、6:58)。

その三は、その神秘的意義で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」といわれています(ヨハネ6:56ー57)。

その四は、その予定的意義で「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」および「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」といわれています(ヨハネ6:37、6:44)。

その五は、その神学的意義で歴史的にこの教えをきく者の眼前に立てるイエスと、その血と肉とを食わせる彼とを一致させることの困難に見られるもので、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」および「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」および「ユダヤ人たちはーーあれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。」といわれ(ヨハネ6:52、6:60、6:41ー42)、この聖餐の意義の把握は、一に神学的でなければならないことを教えています。

教会は、バプテマスと聖餐の「聖礼典」によって、見ない神的なものを、教会自身の弱さのために見失なわないために、これを与えられたことを思い、それによってこの見える記念としての礼典的意義を正しく理解する必要があるのです。
これによって教会は、自己の外世界性を魂の奥底までしみ込ませ、周囲の世界に向かって、これを示さなければならないのです。

「聖書の神の名」

「聖書の神の名」

旧約聖書で「名」が重要な意義をもっているのは、「神の名」です。
イスラエルの神は、その祖・アブラハム、イサク、ヤコブに、「全能の神」およびその他の名であらわれました。
(創世記17:1=アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(参考:創世記14:18「創造主」、16:13「エル・ロイ」、21:33「永遠の神」)。

もちろん「ヤーウエ」(エホバは、ヤハウェという「神の名」を誤って発音したもの。日本語聖書では「主」と書かれています)という「神の名」は知られていましたが(創世記4:26その他=「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」

しかし、「神の名」が、明白に現されたのはモーセに対してでした。

出エジプト記3:13ー15=モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしは有って有る』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『有って有る』という方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

出エジプト記6:2ー3=神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」

したがってこの「神の名」によって、初めてヤーウエは、イスラエルの契約の神となったのです。
「神の名」の知られないところに神ご自身を知りようがありません。

『わたしは、有って有る者』には、絶対に対象化されない神・その自由意志においてその都度自らを示す神が示唆されています。
しかもその神は、モーセ五書の文脈みて、旧約聖書全体のそれからしても、宇宙万物の「創造主」で、アブラハム、イサク、ヤコブに出会われた「歴史の主」として仰がれています。
それは「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を,いつくしむ」者としてパウロにも出会われた神なのです(ロマ書9:15以下)。