「カトリックとプロテスタント」

「カトリックとプロテスタント」

両方とも、聖書に基づいて存在しています。
両者を二分する聖書の箇所は、次の通りです。

イエスとその弟子たちの一行が、ピリポ・カイザリヤ地方に行ったとき、イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われました。
これに対して、ペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えたのです。
このときイエスは、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:13ー19)と語られました。

カトリックは、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」に基づいて、カトリックの総本山、サン・ピエトロ大聖堂を建てました。サン・ピエトロとは、「聖ペテロ」の意味で、ペテロのイタリア語読みに由来しています。
サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント・ピーター寺院などと表記されることもあります。

プロテスタントは、イエスに対する「信仰告白」こそ、教会がその上に立つ「岩」と解し、その告白の上に建てられた教会こそ、「天国の鍵」を与えられるものであること解しています。
しかも、この「信仰告白」は、人間の一方的決断によってなされるものでなく、「天」にいますイエスの父なる神によって示されるものであることが教えられていると解釈しています。
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「試練」

「試練」

キリスト者は、良くない出来事にあうと、「これは神様からの試練だ」と言います。
聖書上の最高の試練は、イエスの十字架の死の覚悟で、マタイによる福音書は、

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯(十字架の死)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

と、三度祈ったと伝えています。
「人としてのイエス」にとって、最高の試練だったことがわかります。

「神の選びと、棄却」は、聖書にはたくさん記録されていますが、イスラエルの初代王サウルの棄却とダビデの選びもそうですし、イスラエルの祖、教会の父と呼ばれるアブラハムの場合は、下記のようなものでした。

アブラハムに対する「根源約束」(創世記12:1-3)の第二の部分「子孫繁栄」(第一の部分は、「国土獲得」)は、族長三代(アブラハム、イサク、ヤコブ)にわたって、くり返し確認されています(創世記13:16、15:5、17:2、17:6、18:18、22:17、26:24、28:14、35:11、46:3、48:4)。

この部分的約束に対しは、二つの条件がつけられていました。
一は「嫡出直系」(正妻の子)であることと、「血統純潔」(妻は同族の女)であることでした。
さらに付加的の約束がありました。
それは「子孫繁栄」のための当然の要請としてみられた「異民制圧」ということです。

「わたし(神)は確かにあなた(アブラハム)を大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」(創世記22:17、24:60、出エジプト記15:14以下、申命記7:16、7:24、 11:23など)。

すなわちイスラエルが出エジプトして後荒野を経てカナンを占領する場合には、周囲の異民族との闘争が必然的に予想されます。そこで必ず異邦民族を征服しなければなりません。これがために「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」という象徴的表現で始まる上述の一連の付帯的約束が与えられたのです。

「子孫繁栄」という「根源約束」は、それを与えられたアブラハムにとって一大困難でした。アブラハムにはその妻サラとの間に男児がありませんでした。彼は数回神に祈りました。

第一回は、彼は自分に子がないので、その奴隷頭ともいうべきダマスコのエリエゼルを相続人にしようとしましたが、神は明らかに「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と命じられました。彼に天の星を示し、「あなたの子孫はこのようになる。」と約束されたのです。これをアブラハムが信じたので「主はそれを彼の義と認められた。」のです(創世記15:6)。これが聖書における信仰と義とに関する最初の言葉です。

第二回は、彼の妻のサラから出たものです。彼女は自分に男児がないため、その女奴隷を夫に与え、それによって得た子を、その相続者としようとしました。これがためにアブラハムの家に紛争がおこりました(創世記16章)。神はこのアブラハム夫婦の神への不信に対して、さらにくり返してその嫡出としての男子の与えらることを確約されましたが、二人はなおも懐疑的態度を拾てませんでした。

アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」「アブラハムはひれ伏し、そして笑った」とは、その態度を表現した句です(創世記17:17)。

時来たって神はその約束のようにアブラハム夫婦に男児イサクを与えました。そしてもう一度「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」といわれたのです(創世記21:12)。

これによってアブラハムの太祖としての試練は終わったようにみえましたが、そうではなく、最後のそれはより高度の試練としてのこされていたのです。

「そのひとり子イサクを燔祭としてささげよ」(創世記22:2)、という命令は、単にひとり子だからという苦悩だけではなく、彼がカルデヤから召し出され、そのとき与えられた「子孫繁栄」の約束の成就が、ひとり子イサクにかかっているのに、そのひとり子をささげよとの命令である苦悩でした(創世記22章)。

イサクがなければその約束はすべて無になり、故郷を離れたという事実と、その後の生涯とはなんら意味のないものに成り果てるからでした。

しかしアブラハムはこの試練に合格しました。
そしてこれによって「子孫繁栄」の約束は、彼とその子孫「とのため」という利己的なものではなく、「根源約束」の第三の部分約束である「万民福祉」のためのものであったことを知らされたのでした。

冒頭に引用したイエスの「試練」も、アブラハムの「試練」同様、「万民福祉」のためのものです。
一般に言われる「試練」の結末と、聖書に記された「試練」の結末との落差がきわめて大きいのです。
 

「『人の言葉』が『神の言葉』に」

聖書は、「人の言葉」で書かれています。中には著者の名前も書かれている書物があるのですから当然です。
「人の言葉」で書かれたその聖書が、「神の言葉」になる瞬間があります。
その瞬間を「できごと」といいます。
旧約聖書、新約聖書でも、この「できごと」が起きることが書かれています。

旧約聖書では、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:30)と、「戸が開かれる」ことの必然が書かれていますし、新約聖書では、「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼ら(弟子たち)の心を開いて、」(ルカ24:45)と、「心が開かれる」ことが不可欠であることが書かれています。

現代神学のいう「できごと」とは、「人の言葉」で書かれた聖書が、「神の言葉」になる瞬間をいいます。
この「できごと」が現実に起きた記録がキリスト教史上かなり多くあります。

古典的なものとしては、アウグスティヌスの場合(ロマ書13:13以下)。フランチェスコの場合(マタイ10:9以下)、ルターの場合(ロマ書1:17)などがあります。

近世では、パスカルの場合がまずあげられます。
「恩寵の年一六五四年十一月二十三日、月曜日、教皇にして殉教者なる聖クレマンおよび殉教者名簿の中の他の人々の祭日、殉教者・聖クリソゴーヌおよび他の人々の祭日の前夜、夜十時半ごろより零時半ごろまで。『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』。哲学者および学者の神ならず、確信、確信、感激、歓喜、平和。イエス=キリストの神。『わが神、すなわち汝らの神』。神以外のこの世およびいっさいのものの忘却」とは、このできごとをしるした「彼の覚え書き」の言葉です(由木康著「パスカル伝」一四〇ページ)。
これと同様のことが、アメリカ・ニューイングランドの大神学者であり、大説教者であったジ’ョナサン・エドワーズにおいても起こっています。
彼はある日、Ⅰテモテ1:17を読んでいましたが、突然その言葉を通して、神と神的なすべての事柄に対する内的歓喜が彼の全身をひたしたのです(A.V.G.Allen:Jonathan Edwards。1889。pp.24-26)。
これが単なる感情でなかったことは、彼がこの「できごと」とともに、その全存在を神にささげる決意をしたことによって知られます。一七二三年一月十二日のことでした。

以上はすべて感情の高揚を伴うできごとの場合ですが、監督バトラーの場合は、これらとまったく異なり、ほとんど感情を伴わなかったようにみえます。
彼は有名なThe Analogy of Religionを一七三六年に刊行した、英国国教会の監督でした。
彼は一七五二年六月その臨終の床にありましたが、彼はそのチャプレンを呼んで、
「自分は罪を犯さざらんためにあらゆる努力をし、神を喜ばせ奉らんがために私の全力を尽した。しかし不断の弱さの意識のために自分は今死ぬことを恐れている」
と言いました。

その時チャプレンは「監督よ。あなたはイエス・キリストが救い主であることを忘れておいでになる」と答えました。
バトラーはさらに「そうには違いない。しかし彼が私に対する救い主であるということを、私はいかにして知ることができるであろうか?」ときいたのです。

チャプレンは「監督よ、聖書には、父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」とヨハネによる福音書6:37の言葉で答えたのです。
バトラーは「ほんとうだ、私は聖書を数千度読んだけれども、この瞬間までその力を感じなかった。しかし今は幸いに死ぬことができる」と答え、静寂のうちに、六十歳をもって同月十六日永久にその目を閉じました(Joseph Butler:The Analogy of Religion。edited by Joseph Cummings with Preface。1875。pp.31ff)。 

キリスト教会史はこの「できごと」の連続でしたし、また連続でなければならないのです。
この「できごと」の連続であったからこそ、あらゆる俗化と堕落とにもかかわらず、今日なおそれが「キリスト教会」でありうるのです。

昨日も、今日も、明日もまた「キリスト教会」であるためには、その存在が、この「できごと」の連続としてありうるのでなければならないのです。
教会自身がその「正典」として信奉させられた聖書が、「キリスト証言」であるといわれた意味と事実とが、そこに不断に、くり返して、具現されるのです。

この「できごと」が聖書解釈者の上に起こった時、初めて彼はその名にふさわしい者とされます。
この「できごと」が彼の上に起こることによって、初めて聖書解釈者としての過去と未来とが創造されます。

彼はこれによって、彼の過去におけるいっさいの聖書解釈とその結果とが生かされたことを感じるのです。
彼のうちに貯えられたいっさいの聖書の知識が、ちょうど散布された鉄粉の上を電流が通された時のように、一つの神与の方向を採ってくるのです。
同時にこの「できごと」は彼に、聖書解釈者としての未来を新たに与えます。
彼のその日からの聖書解釈は、昨日までのそれではないのです。
昨日までのそれは暗中模索的であったし、隔靴掻痒的でしたが、明日からのそれは、「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」(ルカ24:32)ということのできるそれとなるのです。
明日からの聖書解釈が、このようになるということは、けっして絶対無謬的なそれになるというのではありません。
それはどこまでも弱く、限られた人間の営みとしてであって、常に誤謬に陥るでしょうが、しかし一つの羅針盤を与えられたことによって、その時々により正しい方向を定めることができるのです。

明日からのこの解釈についていわれることは、それが真に個性的信仰的なものになるということです。
というのはルターに「できごと」が起こって後は、そのロマ書1:17が、その聖書解釈の基本的方向となり、羅針盤となったようなものです。
このことはフランチェスコにおいても(マタイ19:9以下)、アウグスティヌスにおいても(ロマ書23:13以下)、同様でした。               

聖書と「私」



聖書と「私」



●私生児として・・・

私は私生児として産まれました。いまでこそ私生児は珍しくないでしょう。でも、聖書の申命記では、「不倫の子(以前の聖書では、私生児)は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、【主】の集会に加わることはできない。」(申命記二三章二節)という律法があります。私生児は、神の前にも、人の前にも、まともな扱いをされない時代があったことは確かです。「十代目」ということは、「十」が完全数ですから、その子孫は永遠に「主の集会=教会=イエス様を主とする一切の集まり」に加わることは許されないという意味になります。
私も子供の頃から、「私生児」としてずっと後ろ指を指され続けたものです。また、小学校から中学へ、中学から高校へと、進学する度に「私生児、要注意人物」という注意書きが送られていたということを、後に高校時代の恩師から聞かされました。
父は判事で、司法研修所のトップも勤めた人ですから「法の番人」として、本来「私生児」を世に出すことは許されない立場の人でした。
私と、父の違う姉二人は、母の手を削るような労苦の中で育てられました。
高校生の時に、戸籍謄本の父の欄が「不詳」と書かれたままでは、将来就職などに差し支えるということで、散々手を尽くして父に「認知(父親であることを認める)」を依頼しました。実父との初対面を前にしていろいろ思いを巡らせました。「大きくなったね」「すまなかったね」といった甘い言葉を想像していたのですが、初対面で最初に言われた言葉は想像も出来ないものでした。
「お前が生きていると、俺の家族に迷惑なんだ。だから産まれてすぐに養子にやるようにしていたのに、お前の母さんが云うことを聞かなかったから、こんなことになってしまって。困るんだよ!」
出産費も、養育費も出さず、初対面の言葉がこれでした。
しかも「親の養育義務は、世界的には、三歳までなのだ。三歳になれば乞食をしてでも生きられる」という付言までして・・・。
もちろん遺産放棄の強制。
それから十数年。父の葬儀の知らせが来ました。東京・高田馬場の教会での葬儀。牧師の「鈴木勇兄弟は、十二月二一日に洗礼を受けられ・・・」という言葉だけが頭の中に響きわたりました。十二月二一日は私の誕生日なのです。
父の受洗の動機は分かりません。判事として、人が人を裁くことの限界性が身に沁みたのか、聖書を読み「真理」と受け取ったのか、あるいは私に対する贖罪の意味だったのか・・・。
仮にそれが私に対する贖罪だったとしても。「神、それを赦しても、我は許さじ」と強く思ったものです。

●母の再婚・・・

母は私が小学生の時に再婚しました。再婚相手は野辺地東洋という人で、後に哲学の教授になった人ですが、その当時は、戦犯として公職追放を受けており浪々の身でした。東洋もまた再婚で、二人の子を先妻の元に残してきていました。
東洋の父は野辺地天馬という牧師で児童福音に生きていた人です。彼の一切の著作は、国立国会図書館でデータ化されて永久保存されることになっています。東洋の母親も宣教師であり、彼の叔父は渡辺善太という聖書学者でした。
私は「イエス・キリストの香り」の中で育ったはずの東洋が、ひどい癇癪持ちで何かと言うと眉間に青筋を立てて怒る中で、ヒヤヒヤ・ドキドキしながら共に暮らしていたのです。ですから、「クリスチャンとはこういうモノか。羊頭狗肉も酷過ぎる。絶対にクリスチャンにだけはなるまい」と強く心に決めていました。

●妻の洗礼と私の受洗・・・

クリスチャン嫌いのまま大人に成った私は、妻節子と結婚し一人の息子に恵まれ、社会人として多忙で充実した毎日を送っていました。その頃、妻は、親友の死に接して、人間の「いのち」の虚しさを感じたのか、息子の通う小学校の同級生のお母さんたちが行っていたクリスチャンの集まりに参加するようになり、程なく洗礼を受けたいと言い出しました。私の思うクリスチャン像は、体験的に前述した通りですが、妻には妻の道があるという思いから、「分かった」と申しました。
それから十数年経ったある日、私は健康診断で、七秒間の心停止、二回拍動の後、再度五秒間の心停止という診断を受けて、ペースメーカーを挿入することになりました。しかし、手術に二回失敗し、一カ月の絶対安静の後、三度目の手術を受けました。それがきっかけになったのか、強度のうつ病になり、勤めていた会社を退社することになってしまったのです。看病にも、勤め先の退社にも、文句一つ言わずに甲斐甲斐しく私の世話をしてくれた妻には、どんなお礼が良いのかだろうか。おそらく、同じ信仰を持つことが一番嬉しいのではないかと思い、私は洗礼を受けることにしました。
実父・鈴木勇に対して抱いていた「神、それを赦しても、我は許さじ」の想い。母の再婚相手・野辺地東洋に抱いていた「クリスチャンは見掛け倒し」のイメージ。そして受洗後に妻とクリスチャンの集まりに参加するなかで、礼拝、祈り、聖書の説教やメッセージ、賛美、信者同士の会話などに、全精力をつぎ込みましたが、「クリスチャン」「信仰」というものがますます分からなくなるばかりでした。
判で押したような礼拝や祈り。耳にするのは、いつも「イエス様は、私たちを赦して下さり、愛していて下さる」「すべて聖霊が導いて下さいます」「いつも喜んでいます」という三点セットへの帰結。信者同士の会話といえば、過剰な被害者意識の人々の際限のない愚痴と噂話。好悪の感情を「聖霊」という名のオブラートに包み込んだ相互の非難と排斥。そして「聖霊の導きを待つ」という敬虔さを装った思考停止の状態。果たして、聖書という書物はこういう人たちをつくるために書かれたものなのか?
疑念を解消できないまま、その集まりに集い十五年の歳月が過ぎました。ある日、降ってわいたように理不尽な非難が起こり、その集まりから離別して、その後、伝統的なある教会に集ったのですが、役員の人たちとの会合で誰一人、聖書を創世記からヨハネの黙示録まで通読したことがないことを知り驚きました。これでは当然、聖書の話が出来ない集団だと悟り、そことも離別。いまはどの集まりとも関係を持っていません。
もしかすると、申命記律法の「不倫の子は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、【主】の集会に加わることはできない。」(申命記二三章二節)という律法を守らせるための神様のご意志発動なのかも知れません。

●聖書との格闘・・・

私と聖書との格闘は、前述したとおり、受洗した時から全精力をかけて始まりました。新約聖書のマタイによる福音書を数ページ読んで、これは駄目だ、旧約聖書から読まない限り一切分からない書物だとすぐに気付きました。そこで、創世記から黙示録まで何度も通読しましたが、雑然とした言葉の束としか思えませんでした。しかし、イエス様から数えても二千年余。旧約の時代を含めると数千年の間、「聖書」として信じられてきた書物が、唯の言葉の束ではあり得ない、読み方が悪いのだと、東洋の叔父に当たる渡辺善太氏の全集を読み始めたのです。
彼の著作の中心である「聖書正典論」「聖書解釈論」「聖書神学論」だけでも、千ページを超える大冊の書物です。それが何冊もあり、しかも聖書を読んでなければ分からない内容ばかりです。私にとっての聖書理解は、渡辺善太全集を手掛かりにしなくては進まないが、同時に、聖書も読まなければならない、という切迫した状況でした。聖書も、渡辺善太全集も、すべて厚さ二センチほどに分冊して携帯し、通勤、出張先、自宅で、まさに真剣勝負を挑みました。
それから二十年余。聖書は、その一節、一章ではなく、明らかに全体として意図を持った救拯史(神様が、天国から脱落した人間を、再び天国に迎え入れようとする「熱心」と、それに対する人間の「冷淡」との交差を歴史的に書いている)としての体系を持った書物であり、絶対に雑然とした言葉の束ではないことが分かりました。聖書との格闘に多くの時間を要しましたが、その結果、どうにか渡辺善太氏の秘書であり、フエリス女学院大学の名誉教授だった岡村民子氏の著作集の最終校正を任されるまでには至りました。

●「主の証人」・・・

私を私生児として生み、犬猫以下のもののように捨てた父・鈴木勇。五十有余年間、日々の苦痛の元であった母の再婚相手・野辺地東洋。現実のまま受け取れば、悲惨と苦痛でしかありません。
でも、イエス様にあって解釈すると、実父・鈴木勇は、私の誕生日に洗礼を受けることで私に対してイエス様を証した「主の証人」であり、私を聖書の世界に引き入れた反面教師でもありました。母の再婚相手である野辺地東洋は、私が聖書の世界をより深く知るためになくてはならなかった渡辺善太氏、岡村民子氏を引き合わせる役割を果たした、やはり私に対しての「主の証人」になります。野辺地天馬は、その温厚な人格をもって、神様を証した「主の証人」です。私の母は、三人の子供を抱えて、戦中、戦後の混乱期に、一人で両の手が擦り切れるほどに働き続けました。そうした中にあって、母の唯一の慰めは、女子学院で徹底して受けた聖書教育の名残か、詩篇二三篇を英語で口ずさむことと、聖歌七二六番「わが友にます」をハミングすることでした。ですから、私が生まれて最初に出会った英語は、詩篇二三篇だったのです。母もまた、私に対しての「主の証人」だったと思います。
ヨハネによる福音で、バプテスマのヨハネがイエス様の証人としての立場を明確に記しています。
「その方(イエス様)は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(ヨハネによる福音書一章二七節)というように、証人は「くつのひもを解く値うちもない」小さく、低い存在です。大きく前面に在ってはいけないけれども、なくてはならないものです。そういう意味でも、私の周辺の人々は証人でした。
聖書に含まれる一冊、一冊の書物は、そして全体も、イエス様が「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネによる福音書五章三九節)と言われたように証言の書です。その証言に加えて、私には、私に対する「主の証人」が多くいるのですから、これを軽んじてはいけないと常に自戒しています。
昨日の聖書は今日の聖書ではありません。もちろん明日の聖書でもありません。日々、新たに対峙すべき唯一の対話の相手です。決めつけることの出来ない生きた書物なのです。私にとって聖書が真の対話の相手になり切るまでには、終生をかけることになるでしょう。
どうか皆様のお祈りに覚えて頂きたく存じます。


「著者のブログ」

これから聖書を読む方にも、すでに読まれた方の「再確認」にも必要なことを書いた記事の目次です。
クリックしてくだされば、その記事にいきます。

聖書に、旧約聖書と新約聖書の二つがあるのは何故か。イエスの弟子たちは、イエスの十字架の復活を証明するために、当時、神の言葉としての権威が定着していた聖書(旧約聖書)を用いて証明したのです。新約聖書はその証明の足跡です。預言による証明、契約による証明、約束による証明、予型による証明、証言による証明の五つからなっています。
新約聖書と旧約聖書 (通読用)
ブログ形式で読まれる方は、下記を。
☆☆新約聖書と旧約聖書☆☆二つを結ぶ五つの論理☆☆

聖書の神は、有無を言わせずの神ではありません。旧約聖書では、神と人との対話、新約聖書では、人と人との対話で構成されています。旧約聖書で、処罰として国を失わせる場合にさえ、すべての民が納得するまで対話をする神です。新約聖書では、イエスは「人として来た神」ですから、人と人との対話になります。新約聖書の多くの書簡も人と人との対話です。
対話(通読用)

旧約聖書、新約聖書の「約」の字は「契約」を意味します。契約は、聖書の骨格と言えます。モーセが石の板に神の指で書き記された「十戒」から、イエスの十字架の血による契約に至るまでには、多くの変遷があります。神と人との最初の契約であるシナイ契約からイエスの十字架の血による契約までを時系列で追いました。
契約(通読用)

すべてのことに先行して知らなければならないのは、「教会とは、何か?」です。A教会にはA教会の答えがあるでしょう。B教会にはB教会の答えがあるでしょう。でも、「教会とは?」の唯一の答えは聖書にしかありません。教会の超世界性、教会の内世界性、教会の共世界性、教会の外世界性、教会の抗世界性、教会の充世界性、教会の終末が、その答えです。
教会とは?(通読用)

「はじめに神は天と地とを創造された」という頭書をもって始まる創造の叙述は、いうまでもなくバビロン的あるいは非イスラエル的な神話・伝説・古譚等から成り立っています。ところがそれらはすべて、創世記が語ろうとする創造観の思想表現の具として用いられ、その元の意味は変容されています。旧約聖書各書の思想を追ってみます。
「旧約聖書各書の思想」 創世記の思想1-39結び

同一のイエスの伝記としての形をとるので「共観福音書」とよばれる三福音書が新約聖書の冒頭におかれているのは、「いったい何故か」という疑問よびおこします。
三福音書は共通材料をもちながら、しかも「一」をもって他に代えられない特殊性をもつので、そこにおかれています。理論としては、共観福音書ばかりでなく、新約聖書としては27巻、それぞれが他に代えられないキリストへの個性的な「キリスト証言」です
新約聖書各巻の思想1-27

新約聖書には、旧約聖書を「廃棄する」と「遵法する」という相反する二つの態度があります。この関係を解明する鍵は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)という言葉です。旧約聖書はキリストがなければ、「空虚な器」にすぎず、キリストが来たとき、その容器全体が満たされます。キリストによって、「空虚な器」としての旧約聖書は、「満たされ」ることになり、その本来の目的が「成就され」ることになった、という意味です。
成就1-23

聖書は、雑駁な言葉の束、という見方があります。それに対する反論が「聖書の縦の理解」と「横の理解」です。この二つをみれば、聖書が雑駁な言葉の束どころか綿密に設計された書物であることがわかります。
聖書縦の理解1-8
聖書横の理解1-8

イエスの弟子たちは、旧約聖書39冊と新約聖書27冊、合わせて66冊の書物を「教会の正典」(信仰と生活の基準)として決定しました。ところが初代教会時代以降、今日まで聖書に対する混迷が続いています。その混迷は、三つに分けられます。「寓意的解釈」「信条的解釈」「歴史的解釈」です。いずれも、人の言葉で書かれた聖書から、神の言葉を聞こうとしたものです。人言としての聖書が、神言となるのは唯一聖霊の働きによることを忘れた混迷です。
混迷の二千年1-23

「教会とは?」という問いに、A教会は、Aと答えます。B教会は、Bと答えます。そしてC教会は、Cと答えます。聞けば聞くほどわからなくなります。「教会とは?」の唯一の正しい答えは、聖書にあります。「教会の超世界性」「教会の内世界性」「教会の共世界性」「教会の外世界性」「教会の抗世界性」「教会の充世界性」「教会の終末」の7つがその答えです。
教会の超世界性1-4
教会の内世界性1-7
教会の共世界性1-3
教会の外世界性1-8
教会の抗世界性1-3
教会の充世界性1-8
教会の終末1-4

イエスは、天国を「経済的側面」「社会的側面」「政治的側面」「宗教的側面」から語っています。
イエスの語る天国1-7


聖書は、神と人との「契約」が骨格になっています。旧約聖書は「神とイスラエル」との契約です。新約聖書は「神と教会」との契約です。前者は「旧い」契約で、後者は「新しい」契約です。
聖書の「契約」は、神と人との間、人と人との間に結ばれるもので、どちらも宗教的性格をもっています。
「旧い契約」から「新しい契約」1-14

たとえば、創世記のアダムとエバが、神の禁令を破ったのは、「邪推」によるものとみています。神に選ばれた民という既得権益にしがみついた結果、ユダヤ人はイエスを十字架につけて殺しました。創られたものと、創ったものの区別がつかなくなった(主客転倒)結果、義人ヨブは神からお叱りを受けました。


新約聖書では、旧約聖書の契約観が、言及または引用としてはそのまま継承され、一応それが容認されていました(ガラテヤ3:15、ロマ書9:4、エペソ2:12、ルカ1:72、使徒3:25、7:8、黙示録11:19、ヘブル9:4など)。その用語なども「シナイ契約」(ヘブル8:9)、「契約の櫃」(ヘブル9:4)、「契約の石の板」(ヘブル9:4、黙示録11:19)、「幕屋」および「大祭司」(ヘブル8:3)、その他いわゆる幕屋に関する種々の用語などがあります(ヘブル9:1以下)。
新しい契約1-5

聖書は、「時代別」になっています。
構造的に進めてゆくと、
第一に「律法」で、「神と選民の育成」をみ、
第二に「預言者」で、「神と選民の実践」をみ、
第三に「書冊」で、「神と選民の失敗」をみています。
聖書の時代別1-5

教会が、第二世紀半ばに入ると、新しい情勢が発生してきました。多くの地域に存在していた個々の教会に、連関ができてきて、一つの有機的な教会世界が形成されて、その世界での秩序と慣習とが生まれてきたのです。その状況が「新約聖書」(信仰と生活の基準の書)への「信仰的積極的要請」と「実際的消極的必要」とが意識されるようになったのです。
「新約聖書が書かれた理由」1-7

聖書は、人間の「信仰的決断」の記録の書です。
①「上なるもの」に対する自覚的決断で、歴史の方向が決定されています。
(もちろん歴史は決断でつくられますが、聖書の場合は「上なるもの」という特定なものを「明らかに自覚することで決断する」ことを言います)
②自覚的決断の在り方で、地理的・物質的なものが善用または悪用されています。
信仰的判断

聖書最初の契約は、「安息日の契約」です。永遠の契約と呼ばれています。次の契約が、ノアの洪水の後にノアと結んだ「ノアの契約」です。これも永遠の契約です。人間以外の全生物との契約で、「虹をみたら、この契約を思い出せ」といわれています。虹は、弓を横たえた形をしており平和の象徴です。この後、聖書は、創世記12:1-3のアブラハムに対する「根源契約」へと進んでいきます。
聖書中、もっとも美しい契約


平成天皇が皇太子の頃、聖書をお教えした渡辺善太氏の「聖書正典論」を岡村民子博士が平易にしたものを記載しました。
聖書正典論1-20


著者 道川 勇雄
【新改訳改訂第3版】

「牧者のひとりであったアモス」と同じように、神学校出でもありませんし、一介のサラリーマンでした。JAF(日本自動車連盟)から、広告代理店・中央宣興に勤務させていただき、二〇〇九年八月に七〇歳で現役を去りました。いまは、テレビの制作会社・オルタスジャパンの監査役をしています。

「聖書の重要ポイント」

これから聖書を読む方にも、すでに読まれた方の「再確認」にも必要なことを書いた記事の目次です。
クリックしてくだされば、その記事にいきます。

聖書に、旧約聖書と新約聖書の二つがあるのは何故か。イエスの弟子たちは、イエスの十字架の復活を証明するために、当時、神の言葉としての権威が定着していた聖書(旧約聖書)を用いて証明したのです。新約聖書はその証明の足跡です。預言による証明、契約による証明、約束による証明、予型による証明、証言による証明の五つからなっています。
新約聖書と旧約聖書 (通読用)
ブログ形式で読まれる方は、下記を。
☆☆新約聖書と旧約聖書☆☆二つを結ぶ五つの論理☆☆

聖書の神は、有無を言わせずの神ではありません。旧約聖書では、神と人との対話、新約聖書では、人と人との対話で構成されています。旧約聖書で、処罰として国を失わせる場合にさえ、すべての民が納得するまで対話をする神です。新約聖書では、イエスは「人として来た神」ですから、人と人との対話になります。新約聖書の多くの書簡も人と人との対話です。
対話(通読用)

旧約聖書、新約聖書の「約」の字は「契約」を意味します。契約は、聖書の骨格と言えます。モーセが石の板に神の指で書き記された「十戒」から、イエスの十字架の血による契約に至るまでには、多くの変遷があります。神と人との最初の契約であるシナイ契約からイエスの十字架の血による契約までを時系列で追いました。
契約(通読用)

すべてのことに先行して知らなければならないのは、「教会とは、何か?」です。A教会にはA教会の答えがあるでしょう。B教会にはB教会の答えがあるでしょう。でも、「教会とは?」の唯一の答えは聖書にしかありません。教会の超世界性、教会の内世界性、教会の共世界性、教会の外世界性、教会の抗世界性、教会の充世界性、教会の終末が、その答えです。
教会とは?(通読用)

「はじめに神は天と地とを創造された」という頭書をもって始まる創造の叙述は、いうまでもなくバビロン的あるいは非イスラエル的な神話・伝説・古譚等から成り立っています。ところがそれらはすべて、創世記が語ろうとする創造観の思想表現の具として用いられ、その元の意味は変容されています。旧約聖書各書の思想を追ってみます。
「旧約聖書各書の思想」 創世記の思想1-39結び

同一のイエスの伝記としての形をとるので「共観福音書」とよばれる三福音書が新約聖書の冒頭におかれているのは、「いったい何故か」という疑問よびおこします。
三福音書は共通材料をもちながら、しかも「一」をもって他に代えられない特殊性をもつので、そこにおかれています。理論としては、共観福音書ばかりでなく、新約聖書としては27巻、それぞれが他に代えられないキリストへの個性的な「キリスト証言」です
新約聖書各巻の思想1-27

新約聖書には、旧約聖書を「廃棄する」と「遵法する」という相反する二つの態度があります。この関係を解明する鍵は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)という言葉です。旧約聖書はキリストがなければ、「空虚な器」にすぎず、キリストが来たとき、その容器全体が満たされます。キリストによって、「空虚な器」としての旧約聖書は、「満たされ」ることになり、その本来の目的が「成就され」ることになった、という意味です。
成就1-23

聖書は、雑駁な言葉の束、という見方があります。それに対する反論が「聖書の縦の理解」と「横の理解」です。この二つをみれば、聖書が雑駁な言葉の束どころか綿密に設計された書物であることがわかります。
聖書縦の理解1-8
聖書横の理解1-8

イエスの弟子たちは、旧約聖書39冊と新約聖書27冊、合わせて66冊の書物を「教会の正典」(信仰と生活の基準)として決定しました。ところが初代教会時代以降、今日まで聖書に対する混迷が続いています。その混迷は、三つに分けられます。「寓意的解釈」「信条的解釈」「歴史的解釈」です。いずれも、人の言葉で書かれた聖書から、神の言葉を聞こうとしたものです。人言としての聖書が、神言となるのは唯一聖霊の働きによることを忘れた混迷です。
混迷の二千年1-23

「教会とは?」という問いに、A教会は、Aと答えます。B教会は、Bと答えます。そしてC教会は、Cと答えます。聞けば聞くほどわからなくなります。「教会とは?」の唯一の正しい答えは、聖書にあります。「教会の超世界性」「教会の内世界性」「教会の共世界性」「教会の外世界性」「教会の抗世界性」「教会の充世界性」「教会の終末」の7つがその答えです。
教会の超世界性1-4
教会の内世界性1-7
教会の共世界性1-3
教会の外世界性1-8
教会の抗世界性1-3
教会の充世界性1-8
教会の終末1-4

イエスは、天国を「経済的側面」「社会的側面」「政治的側面」「宗教的側面」から語っています。
イエスの語る天国1-7


聖書は、神と人との「契約」が骨格になっています。旧約聖書は「神とイスラエル」との契約です。新約聖書は「神と教会」との契約です。前者は「旧い」契約で、後者は「新しい」契約です。
聖書の「契約」は、神と人との間、人と人との間に結ばれるもので、どちらも宗教的性格をもっています。
「旧い契約」から「新しい契約」1-14

たとえば、創世記のアダムとエバが、神の禁令を破ったのは、「邪推」によるものとみています。神に選ばれた民という既得権益にしがみついた結果、ユダヤ人はイエスを十字架につけて殺しました。創られたものと、創ったものの区別がつかなくなった(主客転倒)結果、義人ヨブは神からお叱りを受けました。


新約聖書では、旧約聖書の契約観が、言及または引用としてはそのまま継承され、一応それが容認されていました(ガラテヤ3:15、ロマ書9:4、エペソ2:12、ルカ1:72、使徒3:25、7:8、黙示録11:19、ヘブル9:4など)。その用語なども「シナイ契約」(ヘブル8:9)、「契約の櫃」(ヘブル9:4)、「契約の石の板」(ヘブル9:4、黙示録11:19)、「幕屋」および「大祭司」(ヘブル8:3)、その他いわゆる幕屋に関する種々の用語などがあります(ヘブル9:1以下)。
新しい契約1-5

聖書は、「時代別」になっています。
構造的に進めてゆくと、
第一に「律法」で、「神と選民の育成」をみ、
第二に「預言者」で、「神と選民の実践」をみ、
第三に「書冊」で、「神と選民の失敗」をみています。
聖書の時代別1-5

教会が、第二世紀半ばに入ると、新しい情勢が発生してきました。多くの地域に存在していた個々の教会に、連関ができてきて、一つの有機的な教会世界が形成されて、その世界での秩序と慣習とが生まれてきたのです。その状況が「新約聖書」(信仰と生活の基準の書)への「信仰的積極的要請」と「実際的消極的必要」とが意識されるようになったのです。
「新約聖書が書かれた理由」1-7

聖書は、人間の「信仰的決断」の記録の書です。
①「上なるもの」に対する自覚的決断で、歴史の方向が決定されています。
(もちろん歴史は決断でつくられますが、聖書の場合は「上なるもの」という特定なものを「明らかに自覚することで決断する」ことを言います)
②自覚的決断の在り方で、地理的・物質的なものが善用または悪用されています。
信仰的判断

聖書最初の契約は、「安息日の契約」です。永遠の契約と呼ばれています。次の契約が、ノアの洪水の後にノアと結んだ「ノアの契約」です。これも永遠の契約です。人間以外の全生物との契約で、「虹をみたら、この契約を思い出せ」といわれています。虹は、弓を横たえた形をしており平和の象徴です。この後、聖書は、創世記12:1-3のアブラハムに対する「根源契約」へと進んでいきます。
聖書中、もっとも美しい契約


平成天皇が皇太子の頃、聖書をお教えした渡辺善太氏の「聖書正典論」を岡村民子博士が平易にしたものを記載しました。
聖書正典論1-20