「聖書の骨格のブログの目次」

これから聖書を読む方にも、すでに読まれた方の「再確認」にも必要なことを書いた記事の目次です。
クリックしてくだされば、その記事にいきます。

聖書に、旧約聖書と新約聖書の二つがあるのは何故か。イエスの弟子たちは、イエスの十字架の復活を証明するために、当時、神の言葉としての権威が定着していyた聖書(旧約聖書)を用いて証明したのです。新約聖書はその証明の足跡です。預言による証明、契約による証明、約束による証明、予型による証明、証言による証明の五つからなっています。
新約聖書と旧約聖書 (通読用)
ブログ形式で読まれる方は、下記を。
☆☆新約聖書と旧約聖書☆☆二つを結ぶ五つの論理☆☆

聖書の神は、有無を言わせずの神ではありません。旧約聖書では、神と人との対話、新約聖書では、人と人との対話で構成されています。旧約聖書で、処罰として国を失わせる場合にさえ、すべての民が納得するまで対話をする神です。新約聖書では、イエスは「人として来た神」ですから、人と人との対話になります。新約聖書の多くの書簡も人と人との対話です。
対話(通読用)

旧約聖書、新約聖書の「約」の字は「契約」を意味します。契約は、聖書の骨格と言えます。モーセが石の板に神の指で書き記された「十戒」から、イエスの十字架の血による契約に至るまでには、多くの変遷があります。神と人との最初の契約であるシナイ契約からイエスの十字架の血による契約までを時系列で追いました。
契約(通読用)

すべてのことに先行して知らなければならないのは、「教会とは、何か?」です。A教会にはA教会の答えがあるでしょう。B教会にはB教会の答えがあるでしょう。でも、「教会とは?」の唯一の答えは聖書にしかありません。教会の超世界性、教会の内世界性、教会の共世界性、教会の外世界性、教会の抗世界性、教会の充世界性、教会の終末が、その答えです。
教会とは?(通読用)

イエスの「再臨」の約束から時間が経つと、自身の信仰に弛緩が起こり、疑いの方が増大するようになりました。そうした中で「信仰の再確認」をするためと、新しく教会に加わった信徒を教えるために書かれたのが福音書ですが、中でもマタイによる福音書は、旧約聖書からの引照を多用して、この目的を充足しています。
旧約聖書の預言1-21


「はじめに神は天と地とを創造された」という頭書をもって始まる創造の叙述は、いうまでもなくバビロン的あるいは非イスラエル的な神話・伝説・古譚等から成り立っています。ところがそれらはすべて、創世記が語ろうとする創造観の思想表現の道具として用いられ、その元の意味は変容されています。旧約聖書各書の思想を追ってみます。
「旧約聖書各書の思想」 創世記の思想1-39結び

同一のイエスの伝記としての形をとるので「共観福音書」とよばれる三福音書が新約聖書の冒頭におかれているのは、「いったい何故か」という疑問をよびおこします。
三福音書は共通材料をもちながら、しかも「一」をもって他に代えられない特殊性をもつので、そこにおかれています。理論としては、共観福音書ばかりでなく、新約聖書としては27巻、それぞれが他に代えられないキリストへの個性的な「キリスト証言」です
新約聖書各巻の思想1-27

新約聖書には、旧約聖書を「廃棄する」と「遵法する」という相反する二つの態度があります。この関係を解明する鍵は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)という言葉です。旧約聖書はキリストがなければ、「空虚な器」にすぎず、キリストが来たとき、その容器全体が満たされます。キリストによって、「空虚な器」としての旧約聖書は、「満たされ」ることになり、その本来の目的が「成就され」ることになった、という意味です。
成就1-23

聖書は、雑駁な言葉の束、という見方があります。それに対する反論が「聖書の縦の理解」と「横の理解」です。この二つをみれば、聖書が雑駁な言葉の束どころか綿密に設計された書物であることがわかります。
聖書縦の理解1-8
聖書横の理解1-8

イエスの弟子たちは、旧約聖書39冊と新約聖書27冊、合わせて66冊の書物を「教会の正典」(信仰と生活の基準)として決定しました。ところが初代教会時代以降、今日まで聖書に対する混迷が続いています。その混迷は、三つに分けられます。「寓意的解釈」「信条的解釈」「歴史的解釈」です。いずれも、人の言葉で書かれた聖書から、神の言葉を聞こうとしたものです。人言としての聖書が、神言となるのは唯一聖霊の働きによることを忘れた混迷です。
混迷の二千年1-23

「教会とは?」という問いに、A教会は、Aと答えます。B教会は、Bと答えます。そしてC教会は、Cと答えます。聞けば聞くほどわからなくなります。「教会とは?」の唯一の正しい答えは、聖書にあります。「教会の超世界性」「教会の内世界性」「教会の共世界性」「教会の外世界性」「教会の抗世界性」「教会の充世界性」「教会の終末」の7つがその答えです。
教会の超世界性1-4
教会の内世界性1-7
教会の共世界性1-3
教会の外世界性1-8
教会の抗世界性1-3
教会の充世界性1-8
教会の終末1-4

イエスは、天国を「経済的側面」「社会的側面」「政治的側面」「宗教的側面」から語っています。
イエスの語る天国1-7

聖書は、神と人との「契約」が骨格になっています。旧約聖書は「神とイスラエル」との契約です。新約聖書は「神と教会」との契約です。前者は「旧い」契約で、後者は「新しい」契約です。
聖書の「契約」は、神と人との間、人と人との間に結ばれるもので、どちらも宗教的性格をもっています。
「旧い契約」から「新しい契約」1-14

たとえば、創世記のアダムとエバが、神の禁令を破ったのは、「邪推」によるものとみています。神に選ばれた民という既得権益にしがみついた結果、ユダヤ人はイエスを十字架につけて殺しました。創られたものと、創ったものの区別がつかなくなった(主客転倒)結果、義人ヨブは神からお叱りを受けました。


新約聖書では、旧約聖書の契約観が、言及または引用としてはそのまま継承され、一応それが容認されていました(ガラテヤ3:15、ロマ書9:4、エペソ2:12、ルカ1:72、使徒3:25、7:8、黙示録11:19、ヘブル9:4など)。その用語なども「シナイ契約」(ヘブル8:9)、「契約の櫃」(ヘブル9:4)、「契約の石の板」(ヘブル9:4、黙示録11:19)、「幕屋」および「大祭司」(ヘブル8:3)、その他いわゆる幕屋に関する種々の用語などがあります(ヘブル9:1以下)。
新しい契約1-5

聖書は、「時代別」になっています。
構造的に進めてゆくと、
第一に「律法」で、「神と選民の育成」をみ、
第二に「預言者」で、「神と選民の実践」をみ、
第三に「書冊」で、「神と選民の失敗」をみています。
聖書の時代別1-5

教会が、第二世紀半ばに入ると、新しい情勢が発生してきました。多くの地域に存在していた個々の教会に、連関ができてきて、一つの有機的な教会世界が形成されて、その世界での秩序と慣習とが生まれてきたのです。その状況が「新約聖書」(信仰と生活の基準の書)への「信仰的積極的要請」と「実際的消極的必要」とが意識されるようになったのです。
「新約聖書が書かれた理由」1-7

聖書は、人間の「信仰的決断」の記録の書です。
①「上なるもの」に対する自覚的決断で、歴史の方向が決定されています。
(もちろん歴史は決断でつくられますが、聖書の場合は「上なるもの」という特定なものを「明らかに自覚することで決断する」ことを言います)
②自覚的決断の在り方で、地理的・物質的なものが善用または悪用されています。
信仰的判断

聖書最初の契約は、「安息日の契約」です。永遠の契約と呼ばれています。次の契約が、ノアの洪水の後にノアと結んだ「ノアの契約」です。これも永遠の契約です。人間以外の全生物との契約で、「虹をみたら、この契約を思い出せ」といわれています。虹は、弓を横たえた形をしており平和の象徴です。この後、聖書は、創世記12:1-3のアブラハムに対する「根源契約」へと進んでいきます。
聖書中、もっとも美しい契約

平成天皇が皇太子の頃、聖書をお教えした渡辺善太氏の「聖書正典論」を岡村民子博士が平易にしたものを記載しました。
聖書正典論1-20




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聖書の描く「良妻賢母」

TBSのテレビドラマ「あなたのことはそれほどに」が、視聴率を稼ぐ時代に、聖書のみた「良妻賢母」などはカビ臭いだろうが、蛇に騙されて神の禁令を犯し、夫アダムも道ずれにしたエバ、義人ヨブに「神を呪って死になさい」と罵ったヨブの妻、貧乏なナボテの僅かな財産であるぶどう園を奪い、ナボテまで殺したイゼベルなどなど、聖書は悪女をたくさん描いていますが、下記の箴言31章は、まれに出てくる「良妻賢母」の描写です。


10
しっかりした妻をだれが見つけることができよう。
彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。
11
夫の心は彼女を信頼し、
彼は「収益」に欠けることがない。
12
彼女は生きながらえている間、
夫に良いことをし、悪いことをしない。
13
彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、
喜んで自分の手でそれを仕上げる。
14
彼女は商人の舟のように、
遠い所から食糧を運んで来る。
15
彼女は夜明け前に起き、
家の者に食事を整え、
召使いの女たちに用事を言いつける。
16
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、
自分がかせいで、ぶどう畑を作り、
17
腰に帯を強く引き締め、
勇ましく腕をふるう。
18
彼女は収入がよいのを味わい、
そのともしびは夜になっても消えない。
19
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、
手に糸巻きをつかむ。
20
彼女は悩んでいる人に手を差し出し、
貧しい者に手を差し伸べる。
21
彼女は家の者のために雪を恐れない。
家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。
22
彼女は自分のための敷き物を作り、
彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。
23
夫は町囲みのうちで人々によく知られ、
土地の長老たちとともに座に着く。
24
彼女は亜麻布の着物を作って、売り、
帯を作って、商人に渡す。
25
彼女は力と気品を身につけ、
ほほえみながら後の日を待つ。
26
彼女は口を開いて知恵深く語り、
その舌には恵みのおしえがある。
27
彼女は家族の様子をよく見張り、
怠惰のパンを食べない。
28
その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、
夫も彼女をほめたたえて言う。
29
「しっかりしたことをする女は多いけれど、
あなたはそのすべてにまさっている」と。
30
麗しさはいつわり。
美しさはむなしい。
しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。
31
彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、
彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。

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聖書に、旧約聖書と新約聖書の二つがあるのは何故か。イエスの弟子たちは、イエスの十字架の復活を証明するために、当時、神の言葉としての権威が定着していyた聖書(旧約聖書)を用いて証明したのです。新約聖書はその証明の足跡です。預言による証明、契約による証明、約束による証明、予型による証明、証言による証明の五つからなっています。
新約聖書と旧約聖書 (通読用)
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☆☆新約聖書と旧約聖書☆☆二つを結ぶ五つの論理☆☆

聖書の神は、有無を言わせずの神ではありません。旧約聖書では、神と人との対話、新約聖書では、人と人との対話で構成されています。旧約聖書で、処罰として国を失わせる場合にさえ、すべての民が納得するまで対話をする神です。新約聖書では、イエスは「人として来た神」ですから、人と人との対話になります。新約聖書の多くの書簡も人と人との対話です。
対話(通読用)

旧約聖書、新約聖書の「約」の字は「契約」を意味します。契約は、聖書の骨格と言えます。モーセが石の板に神の指で書き記された「十戒」から、イエスの十字架の血による契約に至るまでには、多くの変遷があります。神と人との最初の契約であるシナイ契約からイエスの十字架の血による契約までを時系列で追いました。
契約(通読用)

すべてのことに先行して知らなければならないのは、「教会とは、何か?」です。A教会にはA教会の答えがあるでしょう。B教会にはB教会の答えがあるでしょう。でも、「教会とは?」の唯一の答えは聖書にしかありません。教会の超世界性、教会の内世界性、教会の共世界性、教会の外世界性、教会の抗世界性、教会の充世界性、教会の終末が、その答えです。
教会とは?(通読用)

イエスの「再臨」の約束から時間が経つと、自身の信仰に弛緩が起こり、疑いの方が増大するようになりました。そうした中で「信仰の再確認」をするためと、新しく教会に加わった信徒を教えるために書かれたのが福音書ですが、中でもマタイによる福音書は、旧約聖書からの引照を多用して、この目的を充足しています。
旧約聖書の預言1-21


「はじめに神は天と地とを創造された」という頭書をもって始まる創造の叙述は、いうまでもなくバビロン的あるいは非イスラエル的な神話・伝説・古譚等から成り立っています。ところがそれらはすべて、創世記が語ろうとする創造観の思想表現の道具として用いられ、その元の意味は変容されています。旧約聖書各書の思想を追ってみます。
「旧約聖書各書の思想」 創世記の思想1-39結び

同一のイエスの伝記としての形をとるので「共観福音書」とよばれる三福音書が新約聖書の冒頭におかれているのは、「いったい何故か」という疑問をよびおこします。
三福音書は共通材料をもちながら、しかも「一」をもって他に代えられない特殊性をもつので、そこにおかれています。理論としては、共観福音書ばかりでなく、新約聖書としては27巻、それぞれが他に代えられないキリストへの個性的な「キリスト証言」です
新約聖書各巻の思想1-27

新約聖書には、旧約聖書を「廃棄する」と「遵法する」という相反する二つの態度があります。この関係を解明する鍵は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)という言葉です。旧約聖書はキリストがなければ、「空虚な器」にすぎず、キリストが来たとき、その容器全体が満たされます。キリストによって、「空虚な器」としての旧約聖書は、「満たされ」ることになり、その本来の目的が「成就され」ることになった、という意味です。
成就1-23

聖書は、雑駁な言葉の束、という見方があります。それに対する反論が「聖書の縦の理解」と「横の理解」です。この二つをみれば、聖書が雑駁な言葉の束どころか綿密に設計された書物であることがわかります。
聖書縦の理解1-8
聖書横の理解1-8

イエスの弟子たちは、旧約聖書39冊と新約聖書27冊、合わせて66冊の書物を「教会の正典」(信仰と生活の基準)として決定しました。ところが初代教会時代以降、今日まで聖書に対する混迷が続いています。その混迷は、三つに分けられます。「寓意的解釈」「信条的解釈」「歴史的解釈」です。いずれも、人の言葉で書かれた聖書から、神の言葉を聞こうとしたものです。人言としての聖書が、神言となるのは唯一聖霊の働きによることを忘れた混迷です。
混迷の二千年1-23

「教会とは?」という問いに、A教会は、Aと答えます。B教会は、Bと答えます。そしてC教会は、Cと答えます。聞けば聞くほどわからなくなります。「教会とは?」の唯一の正しい答えは、聖書にあります。「教会の超世界性」「教会の内世界性」「教会の共世界性」「教会の外世界性」「教会の抗世界性」「教会の充世界性」「教会の終末」の7つがその答えです。
教会の超世界性1-4
教会の内世界性1-7
教会の共世界性1-3
教会の外世界性1-8
教会の抗世界性1-3
教会の充世界性1-8
教会の終末1-4

イエスは、天国を「経済的側面」「社会的側面」「政治的側面」「宗教的側面」から語っています。
イエスの語る天国1-7

聖書は、神と人との「契約」が骨格になっています。旧約聖書は「神とイスラエル」との契約です。新約聖書は「神と教会」との契約です。前者は「旧い」契約で、後者は「新しい」契約です。
聖書の「契約」は、神と人との間、人と人との間に結ばれるもので、どちらも宗教的性格をもっています。
「旧い契約」から「新しい契約」1-14

たとえば、創世記のアダムとエバが、神の禁令を破ったのは、「邪推」によるものとみています。神に選ばれた民という既得権益にしがみついた結果、ユダヤ人はイエスを十字架につけて殺しました。創られたものと、創ったものの区別がつかなくなった(主客転倒)結果、義人ヨブは神からお叱りを受けました。


新約聖書では、旧約聖書の契約観が、言及または引用としてはそのまま継承され、一応それが容認されていました(ガラテヤ3:15、ロマ書9:4、エペソ2:12、ルカ1:72、使徒3:25、7:8、黙示録11:19、ヘブル9:4など)。その用語なども「シナイ契約」(ヘブル8:9)、「契約の櫃」(ヘブル9:4)、「契約の石の板」(ヘブル9:4、黙示録11:19)、「幕屋」および「大祭司」(ヘブル8:3)、その他いわゆる幕屋に関する種々の用語などがあります(ヘブル9:1以下)。
新しい契約1-5

聖書は、「時代別」になっています。
構造的に進めてゆくと、
第一に「律法」で、「神と選民の育成」をみ、
第二に「預言者」で、「神と選民の実践」をみ、
第三に「書冊」で、「神と選民の失敗」をみています。
聖書の時代別1-5

教会が、第二世紀半ばに入ると、新しい情勢が発生してきました。多くの地域に存在していた個々の教会に、連関ができてきて、一つの有機的な教会世界が形成されて、その世界での秩序と慣習とが生まれてきたのです。その状況が「新約聖書」(信仰と生活の基準の書)への「信仰的積極的要請」と「実際的消極的必要」とが意識されるようになったのです。
「新約聖書が書かれた理由」1-7

聖書は、人間の「信仰的決断」の記録の書です。
①「上なるもの」に対する自覚的決断で、歴史の方向が決定されています。
(もちろん歴史は決断でつくられますが、聖書の場合は「上なるもの」という特定なものを「明らかに自覚することで決断する」ことを言います)
②自覚的決断の在り方で、地理的・物質的なものが善用または悪用されています。
信仰的判断

聖書最初の契約は、「安息日の契約」です。永遠の契約と呼ばれています。次の契約が、ノアの洪水の後にノアと結んだ「ノアの契約」です。これも永遠の契約です。人間以外の全生物との契約で、「虹をみたら、この契約を思い出せ」といわれています。虹は、弓を横たえた形をしており平和の象徴です。この後、聖書は、創世記12:1-3のアブラハムに対する「根源契約」へと進んでいきます。
聖書中、もっとも美しい契約

平成天皇が皇太子の頃、聖書をお教えした渡辺善太氏の「聖書正典論」を岡村民子博士が平易にしたものを記載しました。
聖書正典論1-20



「ユダヤ人が大嫌いな聖書」

いま世界のキリスト者などが使っている聖書は、「70人訳」です。
旧約聖書の「70人訳」は、旧約聖書の最古の翻訳で、エジプト・アレキサンドリアで完成されたギリシャ語翻訳聖書です。

その起源については、偽典中の「アリステヤの書簡」に書いてありますが、これによると、エジプトのトレミー王朝のフィラデルフス王(紀元前283ー247年)が、父がつくった図書館にユダヤ人の「律法」の翻訳を置くために、原書をエルサレムのユダヤ祭司長に送り、ギリシャ語に翻訳出来る学者を送ることを求めて出来上がったのです。
この偽書のいうところはそのまま受け取られないとしても次の三つのことは明らかです。

①この翻訳が始められた年代は紀元前第三世紀中葉であるということです。
②翻訳作業をした場所がエジプトのアレキサンドリアであるということです。③この翻訳は、紀元第一世紀ごろまでに全体が完成されたもので、その中の「律法」だけは紀元前第三世紀中葉に訳了されていました。

この「70人訳」の目的は二つあって、その一つは亡国後パレスチナ本土以外に散在していたユダヤ人の二世が、母語であるヒブル語の知識を失っていたので、彼らに日常語であるギリシャ語で聖書を読ませようとしたことであり、その二はこれをギリシャ語に翻訳することで、ギリシヤ的教養をもっていた当時の異邦人に、旧約聖書、ことに「律法」の神的価値を知らせようとしたのです。
でも、この目的はのちにまったく裏切られることとなりましたが、そこにまたこの翻訳書の不思議な運命が見られます。

キリスト教が徐々に発展してゆくとともに、この翻訳書が教会の神学と宣教とに対する証拠章節を供給するのに不思議に適していることと、教会が内にはその信徒の信仰のために、外にはその宣教のために、もっぱらこの翻訳書を用いるようになって、ついにこの訳書はキリスト教会の聖書であるかのように考えられるようになったのです。

たとえばイザヤ書7章14節の「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」が、マタイによる福音書1章23節の基礎節となっているのはその適例で、このためこの訳はユダヤ人の嫌悪を招き、その間にまつたく捨てられてしまいました。

マタイによる福音書第1章23節の「パルテノス」(処女)が、この「70人訳」からとられ、ヒブル原典の「アルマー」(結婚適令期の若い女)とちがっていても、それを根拠としてイエスの処女降誕を基礎づけたという、周知の事実にみられるように、教会はこれによって会堂に対し、「これは我々がつくった翻訳ではなく、君たちがつくった翻訳の本文にあるではないか」と力づよく弁証することができたのです。

この意味で、教会がメシヤ預言のイエス的解釈によって、会堂に対抗したことは、もちろんイエスのメシヤ性が彼らの中心問題であったためですが、幸せだったと言えます。

ユダヤ人は、この「70人訳」を捨て、直訳的な「アクィラ訳」をつくり、さらに「テオドシオン訳」と「シンマクス訳」をつくって、その当初の目的に対して用いたのです。最初散在地の二世ユダヤ人のためにつくられたこの「70人訳」は、ついにキリスト教会の聖書となり、教会の神学的用語がラテン語に転移するときまで続きました。

アウグスチヌスは、ラテン語で神学したにかかわらずその著「キリスト教教理」中に、この「70人訳」を「神的」なるもの、といっていることによっても明らかにされます。

もう一つは、「70人訳」の元となっている「ヘブル原典」の配列が、「律法」「預言」「書冊」となっていたものを、「70人訳」では、「律法」「書冊」「預言」とその配列を変えてしまったのです。
これも教会に利しりました。
「預言書」には、メシアが期待されていますから、その期待に応えるように、新約聖書の「メシア来たる」が接続するのですから、これほどの好遇はありません。

しかも「70人訳」の最後のマラキ書の末尾は、
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ4:5-6)
となっており、イエスの誕生そのもので結んでいます。

では、「ヘブル原典」の配列のままならどうなるか。
「ヘブル原典」の最後は、「歴代誌」ですから、
「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(Ⅱ歴代誌36:23)
ですから、比較にならないほど教会を利したのです。

アウグスチヌスが、「70人訳」を「神的」なるもの、といったのはまさにその通り、と言えます。

「聖書の骨格のブログの目次」

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聖書に、旧約聖書と新約聖書の二つがあるのは何故か。イエスの弟子たちは、イエスの十字架の復活を証明するために、当時、神の言葉としての権威が定着していyた聖書(旧約聖書)を用いて証明したのです。新約聖書はその証明の足跡です。預言による証明、契約による証明、約束による証明、予型による証明、証言による証明の五つからなっています。
新約聖書と旧約聖書 (通読用)
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☆☆新約聖書と旧約聖書☆☆二つを結ぶ五つの論理☆☆

聖書の神は、有無を言わせずの神ではありません。旧約聖書では、神と人との対話、新約聖書では、人と人との対話で構成されています。旧約聖書で、処罰として国を失わせる場合にさえ、すべての民が納得するまで対話をする神です。新約聖書では、イエスは「人として来た神」ですから、人と人との対話になります。新約聖書の多くの書簡も人と人との対話です。
対話(通読用)

旧約聖書、新約聖書の「約」の字は「契約」を意味します。契約は、聖書の骨格と言えます。モーセが石の板に神の指で書き記された「十戒」から、イエスの十字架の血による契約に至るまでには、多くの変遷があります。神と人との最初の契約であるシナイ契約からイエスの十字架の血による契約までを時系列で追いました。
契約(通読用)

すべてのことに先行して知らなければならないのは、「教会とは、何か?」です。A教会にはA教会の答えがあるでしょう。B教会にはB教会の答えがあるでしょう。でも、「教会とは?」の唯一の答えは聖書にしかありません。教会の超世界性、教会の内世界性、教会の共世界性、教会の外世界性、教会の抗世界性、教会の充世界性、教会の終末が、その答えです。
教会とは?(通読用)

イエスの「再臨」の約束から時間が経つと、自身の信仰に弛緩が起こり、疑いの方が増大するようになりました。そうした中で「信仰の再確認」をするためと、新しく教会に加わった信徒を教えるために書かれたのが福音書ですが、中でもマタイによる福音書は、旧約聖書からの引照を多用して、この目的を充足しています。
旧約聖書の預言1-21


「はじめに神は天と地とを創造された」という頭書をもって始まる創造の叙述は、いうまでもなくバビロン的あるいは非イスラエル的な神話・伝説・古譚等から成り立っています。ところがそれらはすべて、創世記が語ろうとする創造観の思想表現の道具として用いられ、その元の意味は変容されています。旧約聖書各書の思想を追ってみます。
「旧約聖書各書の思想」 創世記の思想1-39結び

同一のイエスの伝記としての形をとるので「共観福音書」とよばれる三福音書が新約聖書の冒頭におかれているのは、「いったい何故か」という疑問をよびおこします。
三福音書は共通材料をもちながら、しかも「一」をもって他に代えられない特殊性をもつので、そこにおかれています。理論としては、共観福音書ばかりでなく、新約聖書としては27巻、それぞれが他に代えられないキリストへの個性的な「キリスト証言」です
新約聖書各巻の思想1-27

新約聖書には、旧約聖書を「廃棄する」と「遵法する」という相反する二つの態度があります。この関係を解明する鍵は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)という言葉です。旧約聖書はキリストがなければ、「空虚な器」にすぎず、キリストが来たとき、その容器全体が満たされます。キリストによって、「空虚な器」としての旧約聖書は、「満たされ」ることになり、その本来の目的が「成就され」ることになった、という意味です。
成就1-23

聖書は、雑駁な言葉の束、という見方があります。それに対する反論が「聖書の縦の理解」と「横の理解」です。この二つをみれば、聖書が雑駁な言葉の束どころか綿密に設計された書物であることがわかります。
聖書縦の理解1-8
聖書横の理解1-8

イエスの弟子たちは、旧約聖書39冊と新約聖書27冊、合わせて66冊の書物を「教会の正典」(信仰と生活の基準)として決定しました。ところが初代教会時代以降、今日まで聖書に対する混迷が続いています。その混迷は、三つに分けられます。「寓意的解釈」「信条的解釈」「歴史的解釈」です。いずれも、人の言葉で書かれた聖書から、神の言葉を聞こうとしたものです。人言としての聖書が、神言となるのは唯一聖霊の働きによることを忘れた混迷です。
混迷の二千年1-23

「教会とは?」という問いに、A教会は、Aと答えます。B教会は、Bと答えます。そしてC教会は、Cと答えます。聞けば聞くほどわからなくなります。「教会とは?」の唯一の正しい答えは、聖書にあります。「教会の超世界性」「教会の内世界性」「教会の共世界性」「教会の外世界性」「教会の抗世界性」「教会の充世界性」「教会の終末」の7つがその答えです。
教会の超世界性1-4
教会の内世界性1-7
教会の共世界性1-3
教会の外世界性1-8
教会の抗世界性1-3
教会の充世界性1-8
教会の終末1-4

イエスは、天国を「経済的側面」「社会的側面」「政治的側面」「宗教的側面」から語っています。
イエスの語る天国1-7

聖書は、神と人との「契約」が骨格になっています。旧約聖書は「神とイスラエル」との契約です。新約聖書は「神と教会」との契約です。前者は「旧い」契約で、後者は「新しい」契約です。
聖書の「契約」は、神と人との間、人と人との間に結ばれるもので、どちらも宗教的性格をもっています。
「旧い契約」から「新しい契約」1-14

たとえば、創世記のアダムとエバが、神の禁令を破ったのは、「邪推」によるものとみています。神に選ばれた民という既得権益にしがみついた結果、ユダヤ人はイエスを十字架につけて殺しました。創られたものと、創ったものの区別がつかなくなった(主客転倒)結果、義人ヨブは神からお叱りを受けました。


新約聖書では、旧約聖書の契約観が、言及または引用としてはそのまま継承され、一応それが容認されていました(ガラテヤ3:15、ロマ書9:4、エペソ2:12、ルカ1:72、使徒3:25、7:8、黙示録11:19、ヘブル9:4など)。その用語なども「シナイ契約」(ヘブル8:9)、「契約の櫃」(ヘブル9:4)、「契約の石の板」(ヘブル9:4、黙示録11:19)、「幕屋」および「大祭司」(ヘブル8:3)、その他いわゆる幕屋に関する種々の用語などがあります(ヘブル9:1以下)。
新しい契約1-5

聖書は、「時代別」になっています。
構造的に進めてゆくと、
第一に「律法」で、「神と選民の育成」をみ、
第二に「預言者」で、「神と選民の実践」をみ、
第三に「書冊」で、「神と選民の失敗」をみています。
聖書の時代別1-5

教会が、第二世紀半ばに入ると、新しい情勢が発生してきました。多くの地域に存在していた個々の教会に、連関ができてきて、一つの有機的な教会世界が形成されて、その世界での秩序と慣習とが生まれてきたのです。その状況が「新約聖書」(信仰と生活の基準の書)への「信仰的積極的要請」と「実際的消極的必要」とが意識されるようになったのです。
「新約聖書が書かれた理由」1-7

聖書は、人間の「信仰的決断」の記録の書です。
①「上なるもの」に対する自覚的決断で、歴史の方向が決定されています。
(もちろん歴史は決断でつくられますが、聖書の場合は「上なるもの」という特定なものを「明らかに自覚することで決断する」ことを言います)
②自覚的決断の在り方で、地理的・物質的なものが善用または悪用されています。
信仰的判断

聖書最初の契約は、「安息日の契約」です。永遠の契約と呼ばれています。次の契約が、ノアの洪水の後にノアと結んだ「ノアの契約」です。これも永遠の契約です。人間以外の全生物との契約で、「虹をみたら、この契約を思い出せ」といわれています。虹は、弓を横たえた形をしており平和の象徴です。この後、聖書は、創世記12:1-3のアブラハムに対する「根源契約」へと進んでいきます。
聖書中、もっとも美しい契約

平成天皇が皇太子の頃、聖書をお教えした渡辺善太氏の「聖書正典論」を岡村民子博士が平易にしたものを記載しました。
聖書正典論1-20