2018/12/09
誤解させられている「上の権威に従え」
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。
そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(ロマ書13:1-5)
と、ロマ書は教え、ことにこの服従は「良心のため」であるとしている。
また、ペテロ前書も、
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。
それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」(Ⅰペテロ2:13ー14)
と教えている。
これらの言葉は、「教会と世界との共同性」を意味している。
教会が、そのただ中に置かれている「世界の秩序」に対する態度においてそれ自身を表現している。
教会の「超世界性」と「内世界性」から見るとき、教会の周囲の世界の秩序などは、無視すべきものとされるか。
あるいはやむを得ずその下に一時的に服すべきものとして考えられるかのいずれかである。
新約聖書は、教会に命じて、その周囲の「世界の秩序」に対して、信仰的にかつ良心的に服従せよと命じている。
この周囲の「世界の秩序」に従えということは、単なる「中間倫理」、すなわち主の再臨はもはや間近に迫っているから、それまでのところ便宜的に従っておけという意味の倫理、として理解されてはならない。
前掲のロマ書とⅠペテロの言葉は絶対にそのような解釈を許さない。
これこそ教会と世界との「非連続的連続」の上に立つ「共世界性」の理解から述べられた言葉である。
このことは聖書を一貫して現われている「神の人間世界における秩序保全」に対する、聖なる態度において示されている。
神の創造になる世界が、人間の堕落によって破壊されて後も、神はこれをその救いの対象として見られているだけでなく、その秩序保全に常にその聖旨を向けたもうた。
旧約聖書は、一貫してこの事実を示しているが、ことに預言書においてはこのことが濃厚に現われている。
「天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる、『わたしは主である、わたしのほかに神はない。』といい、また 『天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造った方』。」(イザヤ45:18、12)
といわれているのは、これを宣言した明瞭な預言の言葉である。
前掲したロマ書とⅠペテロの言葉は、この聖書を一貫している「世界秩序保全」に対する神の聖旨を、教会的に表現したものである。
この精神は、「世界の秩序崩壊」の一つの原因となる「落伍者への関心」としても現われている。
「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:27)
とは、この精神を如実に語ったものである。
これはしかし、旧約聖書の預言者に現われている「貴族富豪に対する弾劾」と「寡婦孤独に対する顧慮」とは、その「対象を異」にしていることを銘記すべきである。
旧約聖書の、たとえば下記するアモスやイザヤなど、預言者のそれは、「選民の内」(新約で言えば「教会内部」)の被圧迫者と圧迫者とに対するものであるが、上掲の新約聖書の書簡におけるそれは、「教会外の世界」に対する顧慮と関心とを示すものである。
「主はこう言われる、『イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。 彼らはすべての祭壇のかたわらに質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。』」(アモス書 2:6-8)
「わざわいなるかな、みずから象牙の寝台に伏し、長いすの上に身を伸ばし、群れのうちから小羊を取り、牛舎のうちから子牛を取って食べ、 琴の音に合わせて歌い騒ぎ、ダビデのように楽器を造り出し、 鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。 それゆえ今、彼らは捕われて、捕われ人のまっ先に立って行く。そしてかの身を伸ばした者どもの/騒ぎはやむであろう。」(アモス書6:4-7)
「あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。 あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、 乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう。」(アモス書8:4-6) 、
「わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。」(イザヤ5:8)
重ねて記すが、新約聖書のそれは、滅ぶべき「世界の秩序」を救いの対象とするので、保全するという精神から出たものである。
しかし、この周囲の世界の秩序保全に対する教会の共世界的態度は、その世界がどんな「対教会的態度」にあっても、それに無関係に恒久的に続けられるものではない。
それが「非」キリスト教的である間は、この態度がつづけられるが、それが「反」キリスト教的になってくるとき、教会の共世界的態度は変更されるべきものと考えられている。
この教会の共世界的態度の限界は、旧約聖書において、ことに顕著に現われている。
たとえばソロモン王の子レハベアムの代になって、王制が神の選民を圧迫するようになり、またきわめて異教的になったために、「シロ人なる預言者アヒヤ」が、北方諸部落の指導者ヤラベアムを起こして、ついにダビデ王家にそむかせ、王国を南北に分裂させた(Ⅰ列王紀11:29以下)。
また、北王国イスラエルの第四王朝アハブ王のとき、王妃イゼベルによってフェニキヤのバアル礼拝がイスラエルに導入せられ、都サマリヤにその神殿が建てられ、かつ選民イスラエルの個人の神聖なる産業が王によって奪われるという事態が発生したため、預言者エリヤとその弟子エリシャによって、この王朝はついに倒されるに至った(Ⅰ列王紀16:31ー33、21:1以下。Ⅱ列王紀9:1ー10:27)。
新約聖書においても、全天下に君臨していた一帝国が、その虐政と反神的態度との窮みに達したとき、「大いなるバビロン」として描かれ、それが倒されたことがしるされている。
すなわち天より声があって、
「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」
といったときがそのときである(黙示録18:4)。
このときが具体的にいつであるかは、「時の徴を見分ける」教会の「ものみ」が告知すべきである。
同時に教会は常に、この「ものみ」に対して、
「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」(イザヤ21:11)
と問わなければならない。
ここに教会に対する預言的性格の要請が見いだされる。
キリスト教会の「共世界性」は、上記のように、これを構成している「肢」である信仰者が、世界と血肉的につながれている。
それぞれの民族または国家に対して、その「秩序保全」のために協力すべきことを求められているところに根ざす性格である。
しかし、その協力にはおのずから限界がおかれていて、前述のように、周囲の秩序が「非」キリスト的である間においてであって、「反」キリスト的となったとき、教会は初めてそこにその「限界」をみるのである。
次元がきわめて低いことになるが、「カルト化」した教会(「集会」と自称するものも含めて)では、「上の権威」を、牧師、宣教師などと思い込まされている。
聖書で言う「上の権威」とは、「世界が対象」であり、次元が違うのである。
牧師、宣教師が、「反キリスト」的になったら、否、「非キリスト」にさえなったら、信徒は即、「戦う」のが当然である。
その時の「武器」は、聖書である。
その聖書は、学的「公認」(Consensus)を得た「公定本文」によって、時代の、それぞれの国語による「改正訳」によるべきことは、言うまでもない。