六 預言書㊻

二 「後預言者」

(十) ハガイ書

⚫︎ハガイ書の思想

「ハガイ書はどうして出来たか」を昨日記したので、ここでは「ハガイ書は何であるか」をみる。
ハガイ書の主題は、選民生活における神殿再建の位置ということである。
その思想は、⑴選民生活再建の基礎、⑵選民生活浄化の原則、⑶選民生活清算の待望、の三点において跡づけられる。

⑴ 選民生活再建の基礎

ハガイ書の主題は神殿の再建に基づく選民生活の再建と言える。
「山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ」という神の命令が一方に語られているが、他方「わたしは栄光をこの家に満たす」「わたしはこの所に繁栄を与える」と言われ(1:8、2:7、9)、神殿充実の主体は神ご自身であることが力説されている。

ところが本書は、捕囚地バビロンからの帰還者としての多くの具体的苦悩と欠乏とを全面的に示唆している。
具体的には敗戦のあとの苦悩に満ちた開拓の業であり、どん底生活の再建であった。
したがって、選民は「主の家はこのように荒れ果てているのに」、これを顧みる余裕がないのである(1:4)。

「わたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている」とは、その苦境のさ中にある選民に対してなされた神の問責である(1:9)。
神殿充実の主体である神が、窮乏生活にあえぐ選民に対して神殿再建を迫るというのが、 このハガイ書の預言の内容である。

これはいったいいかに解釈されるべき矛盾なのであろうか。
それは、神殿建設を抜きにした選民生活の再建は、全く無意味だからである。
選民のある者は、生活の苦悩の直接的解決策として、より豊かな異邦民族と雑婚した。
然しその解決法は、選民的純粋性の保持を犠牲とすることを意味した。
したがって選民の前には、生活の安定化のため、その選民的独自性を失って、他民族と混合するか、あるいはあくまでも選民性保持の線に沿って、その生活を苦悩のうちに再建するかの二者択一あるのみであった。

二者択一の根源は、各自の生活再建を主位におくか、神殿再建を主位におくかのに帰する。
選民的独自性を失わないような選民生活の再建の基礎は、神殿再建を離れては絶対にあり得ないからである。

⑵ 選民生活浄化の原則

神殿再建を先ず考えないで、生活再建を試みることが、甚だしい本末顛倒であることを明示するため、本書はさらに預言者と祭司との問答をあげている。
「人がその衣服のすそで聖なる肉を運んで行き、そのすそがもし、パン又はあつもの、または酒、または油、またはどんな食物にでもさわったなら、それらは聖なるものとなるか」という祭司に対する問の答は「否」であり、「もし、死体によって汚れた人が、これらの一つにさわったなら、それは汚れるか」との問に対する祭司の答は「然り」であったと叙べられている(2:12以下)。

ここに、聖いものの「非伝染的」であるのと対蹠的に、汚れのもつ「伝染性」を指摘している。
これは、言うまでもなく、神殿を枠としない選民生活の中に働く、汚れの加速度的伝染の法則を教え、神殿再建のない選民生活再建の虚しさを明示している。

⑶ 選民生活清算の待望

本書は第三に、第二神殿の建築完成とともに、選民生活の清算の時、すなわち、メシヤの戴冠(新約聖書でいう再臨)の時が来ることを待望している。
神が「万国民を震い」う時が近づいているといい(2:6)、またこの万国震動の言葉を繰り返した上で、「わがしもベゼルバベルよ、主は言われる。その日わたしはあなたを立て、あなたを印章のようにする。わたしはあなたを選んだからである」という、万軍の主の言葉を記している(2:23)。

これは明らかにバビロンから帰還した人々の指導者であり、政治的主脳者であったゼルバベルを、「メシヤ」として立たしめることを意味していた。

イザヤ書後半の訓慰の預言を聞き、輝かしい回復の言葉をきいた人々としては、当然なことであったろう。

以上が現形ハガイ書の指し示す思想の輪郭である。
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「イエスの遺言」

「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。

そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。

そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。

そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。」
マタイによる福音書 25:31-46 JA1955

六 預言書㊺

二 「後預言者」

(十) ハガイ書

ハガイ書は、選民生活の再建と神殿再建との関係を主題とする預言書である。本書は全体わずか二章からなり、その内容は次のように区分される。
第一 神殿再建の怠慢(1章)
第二 神殿充実の主体(2:1-9)
第三 真正供物の法則(2:10ー19)
第四 天地震動の預言(2:20ー23)
 
⚫︎ハガイ書の成立

ハガイ書をみると、四つの部分に分つことができる、それぞれ独立した預言をその内容とし、それに一々年代が附されている。

第一部(1章)は、ダリヨス王第二年六月一日、第二部(2:1-9)は、同年七月二十一日、第三部(2:10-19)は、2:17を除き、同年六月二十四日とされるべきものが、九月と誤って記されているが、これは本来ハガイによって、神殿建築着手の時に語られたもので、1:11と1:12との間に来るべきものである。

この部分でハガイは、礼奠(れいてん)的に清くない者に関する祭司らの二つの答を媒介として、人々に神殿建築を急ぐべきことを奨励している。
そして神殿の基礎が据えられた今日から、神は彼らを恵むであろうと言っている。

第四部(2:20ー23)は前と同時の預言で、ハガイは民の指導者ゼルバベルを励まし、かつ神の権威の終末的顕現について語っている。
これらの預言は全体的に預言者ハガイの預言とみることができる。

本書の筆者と考えられるハガイは、その名が詩篇中のあるもの(七十人訳の137、145-9等)に現われていることや、彼が神殿の建築の急務を訴えることや、その預言が祭司的思想を反映していることなどから、祭司の家系の者であり、おそらく、このハガイは、紀元前586年に破壊される前の神殿を見知っていた老人の中の一人であったろうと想像される。

ハガイを始めとして、その後に続く預言者の関心は、過去のヘブル預言者の宗教的倫理的なのと異って、もっぱらその重点が、祭司的清浄と礼奠的関心に移ってきている。

六 預言書㊹

二 「後預言者」

(九)ゼパニヤ書

⚫︎ゼパニヤ書の思想

ゼパニヤ書の思想は、神の正義の勝利は「ヤハウェの日」を現在的に見る者においてのみ、正しく理解されるということである。
この思想は、⑴時における遠近法、⑵我における遠近法、の二点から跡づけられる。

⑴ 時における遠近法

「神の正義」についてナホム書は、その外面的・現実的顕現を語り、ハバクク書はそれに対する内面的仰望的態度を教えた。
両者につづくゼパニヤ書は、両者を一元的に捉えさせる。

神の正義は、単なる現在的歴史において求められるべきでもなく、そうかと言って、信仰者は永遠に、その正義の勝利を内面的「仰望」という形においてのみ理解すべきではない。
「神の正義」は「ヤハウェの日」として現在的終末的にのみ、正しく理解される、というのがゼパニヤ書の思想である。

義人の信仰的待望も、永遠に充されない待望ではなく、「ヤハウェの日」という終末に向かっての仰望である。
今の時は、「短縮の一路」を辿るのみである。
時における終末的遠近法である。
時の短縮は、ただ敵の運命に対してだけ言えるのではない。
「我が時」が短縮するのである。

なぜなら「ヤハウェの日」は、全国・全階級・全人類の総決算の日だからである。
「総決算」の日は、我々の終末の日であると共に、現在に直接関わる日である。

「その時、わたしはともしびをもって、エルサレムを尋ねる。そして滓(おり)の上に凝り固まり、その心の中で、『主は良いことも、悪いこともしない』と言う人々を私は罰する」とは、現在的終末的意識において生きない者に対する審判の言葉である(1:12)。
「終末の日の現在的先取」こそ、本書の指し示す独自な遠近法である。

⑵ 我における遠近法

ナホム書が語る、異邦アッスリヤの首都ニネベの陥落という、客観的・歴史的出来事において、神の正義の勝利をみるという時、その人の態度は傍観的・対象的になりやすい。
その時、遠近法の支点に立つ我が忘れられ、見る自己は除外されている。
それでその誤っている自己抽象に対してハバクク書は、「見る者」の深い内省を教えた。

ところがゼパニヤ書は「見る自己」をも含めた全人類の「総決算の日」として終末を彷彿させることにより、「見る自己」をも神の正義の地的顕現の下に服させ、ハバクク書の未来的仰望に、現在的緊張感の根拠を与えたのである。

要するにゼパニヤ書は、「終末観」を、遠近法の支点に立つ「我における終末感」として、現在を緊張的に生きることを教えたのである。

それを示す代表的な言葉は、「主の大いなる日は近い、近づいて、すみやかに来る。主の日の声は耳にいたい。そこに、勇士もいたく叫ぶ」という言葉である(1:14)。

以上が現形ゼパニヤ書の思想の輪郭である。

「神政国」



第一に、「神政国」の政治的状態としては、万国の民が、「神の言葉」の出る源であるシオンの山を中心とし、イスラエルを「聖い民」として、聖地に集い来て、そこに神を主体とする政治が具現し、神がその一切の指導的審判者となり、「彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし」、そこに戦争はあとを絶つことが述べられている(イザヤ2章)。

この「神政国」の主脳者として立つ「メシヤ」は、宗教的には「霊妙なる議士」とよばれ、政治的には「平和の君」とよばれ、社会的には「公平と正義とをもって治める者」として描かれている(イザヤ9:6-7)。

第二に、「神政国」の社会的側面は、あらゆる被造物がーー貧しく、しいたげられたものから、か弱い幼児に至るまでーー互いに損なわず、弱者も強者の犠牲となることなく、強者も弱者を搾取せず、各個性がその所を得て、個性を完成し得る場として描かれている(イザヤ11章)。

第三に、「神政国」の自然的状態は、「しかし、ついには霊が上からわれわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる。その時、公平は荒野に住み、正義は良き畑にやどる」と述べられ、「神政国」の経済的基礎としての生産力の奇跡的増進が述べられている(イザヤ32:15以下)。